55年体制と政官関係の固定化
政治家が政策の方向性について決断し、頭脳集団である官僚がその政策の細部を組み上げる。それが政官関係の枠組みだ。わが国では、1955年に保守が大合同して自由民主党(自民党)が誕生し、野党側でも左右社会党が再統一して日本社会党となる。以来38年の長きにわたり、自民党が政権を担い続けた。
この期間、ある意味で政官関係は安定する。官僚は自民党の顔色をうかがっているだけでよかった。自民党の意に沿う政策立案に協力していれば、昇進も約束された。そして政治と官界はさらに強固な関係を築くことになる。
1970年代から90年代の初めにかけて、参議院選挙の全国区には、省庁の幹部たちが立候補し議席を得る。転身と言えば聞こえがいいが、自民党は、政治能力に長けた幹部官僚をリクルートし、政官の間の橋渡し役とした。政治と官僚が「つるむ」構造が強固に形作られてゆく。
当時、省庁の幹部人事を取材していると、次官レースからこぼれながらも省内で力を誇示する人がいた。「彼は『マル政』(政治銘柄)だから」という風評を耳にした。やがて自民党から出馬するという意味だ。大蔵省(現財務省)、通産省(現経産省)、農林省(現農水省)などの省益を代表して送り出され、選挙戦でも関連団体の票が重点的に割り振られる。出馬すれば当選が約束されていた。
自民党の野党転落と官僚の衝撃
90年代に入って、55年体制の崩壊が政官関係に大きな衝撃をもたらす。
リクルート事件に端を発した「政治とカネ」の問題をめぐる混乱は、自民党の分裂を引き起こし、1993年(平成5年)7月の総選挙で、自民党は初めて単独過半数を割り込む。非共産の野党8党派は、日本新党党首の細川護煕(ほそかわ・もりひろ)を首班とする連立政権を樹立。自民党は結党以来はじめて下野した。
当時、社会部の国会担当として一連の事態を追いかけながら、「一つの時代の壮大な終わりの始まり」を実感し緊張したことを思い出す。
あわてたのが、霞ヶ関の各省庁だ。幹部級を永久与党と思われた自民党に送り込み、営々と築き上げてきた政官パイプは役に立たなくなる。とりわけショックが大きかったのは、大蔵省だ。「改革」を訴える連立新政権がどのような方針で予算編成に臨むのか。大蔵省と蜜月関係にあった竹下登政権を説き伏せて導入させた消費税を撤回しはしまいか。バブル崩壊で苦しい状況が続く予算編成は大丈夫か。
新政権の権力構図と中枢を探り当てて良好な関係を再構築しなければならない。霞ヶ関CIAとも言える大蔵情報網をフル稼働させて探る。
小沢一郎の存在感と現実策
通常なら首相と官房長官が政権の舵を取る。だが、首相の細川(日本新党)、官房長官の武村正義(新党さきがけ)はともに少数政党の党首で、政権の求心力はない。実質的な最高権力は、自民党竹下派を割って新生党旗揚げに動いた小沢一郎にあった。小沢は、与党8党派の幹事長級でつくる与党代表者会議を取り仕切り、政策決定の要にあった。
「政界の壊しや」と異名をとる小沢だが、官僚操縦については現実策を推進する。まずは、官房副長官人事だった。官僚機構のトップとして87年以来、自民政権の内閣官房に詰めてきた石原信雄(自治省事務次官出身)を続投させて、政策の継続性を霞ヶ関にアピールする。
さらに、蔵相と通産相は、両省官僚出身の藤井裕久、熊谷弘で固めた。自民党幹事長も務めた小沢は、田中角栄、竹下登の弟子として、政治の激動期にあっても官僚機構操縦の重要性とその呼吸を熟知していたのである。
細川政権の財政方針は、小沢と、財政規律論者として大蔵事務次官に就任したばかりの斎藤次郎の間のホットラインで決定されていく。(この項、次回に続く)
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考資料
『財務省と政治 「最強官庁」の虚像と実像』清水真人著 中公新書