太平洋戦争終戦への四か月
戦争は始めるより終わらせる方が難しい。戦前最後の首相としてポツダム宣言受諾に導いた鈴木貫太郎(すずき・かんたろう)にとっても終戦への道は簡単な政治作業ではなかった。
昭和天皇から、海軍大将出身で枢密院議長だった鈴木に組閣の大命が下ったのは、昭和20年(1945年)4月6日のことだった。対米戦争はもはや配色濃厚どころか、いかに敗北を認め、長く続いた戦争に幕を引くかに焦点が移っていることはだれの目にも明らかだった。
侍従長も務めた鈴木には、そばで仕えた昭和天皇の意思が「早期終戦」にあることが痛いほどわかった。ただ、陸軍だけはメンツから、「国体護持」を標榜して本土決戦にこだわっている。鈴木に課せられたのは、国家を分裂させることなく、穏当に矛を収める道筋をつけることだった。いかにも難題だ。躊躇する鈴木に受諾させたのは、天皇の一言だったという。
「鈴木の心境は、よく分かる。しかし、この重大な時にあたって、もう他に人はいない。どうか曲げて承知してもらいたい」
情況把握と数少ない機会をつかむ力
第四十二代首相に就任した鈴木は記者会見で、「自分は元来、政治にはずぶの素人で、一介の武弁に過ぎない」と謙遜して述べた。しかし、その裏では、「この難局を乗り切り陛下の意思にそえるのは私しかいない」との自負と決意を秘めていた。
最大の問題は、勇ましいばかりで大局が見えないでいる陸軍をいかに抑え込み、国家一丸となり一糸乱れず、終戦に持ち込むことだった。そのために鈴木が心掛けたのは、陸軍と事を構えないことだった。一方で、彼は明治憲法下での国家運営方式に則り、陸軍が好む非常戦時体制での秘密決定を排除する。閣議での全員一致の方針決定を重視し、同年6月には閣内、陸軍の反対を押し切って国会の召集までしている。
陸軍が陸海軍の統合を目指して時局の主導権を目指したのに反対し、海軍大臣に、統合反対派の米内光政(よない・みつまさ=海軍大将)を留任させ牽制した。また鈴木は、戦争指導最高会議から、外務大臣を排除しようとする陸軍の動きにも抵抗し撤回させた。戦争続行にこだわる陸軍は、和戦両用で外交を展開する外務省が邪魔だった。海軍は、外務省とともに外交、特にスターリンのソ連を調停役としての終戦工作を水面下で模索していた。
鈴木が政権運営で心掛けたのは三点だった。
①的確な情勢(戦況と外交)把握
②終戦への機会を見逃さず好機があれば、一気に決断、行動すること
③生命をかけて最後まで終戦の作業をやり遂げること。
戦争終結のため聖断を仰ぐ
鈴木は閣議でも自らの意思を示すことはあえて回避した。各閣僚に意見を言わせて政府の意思をまとめ上げていく。「優柔不断」と言われても意に介さなかった。目標は一つ、混乱なく終戦に導くことだった。
陸軍がこだわる「国体護持」は、究極のところ、敗戦となっても天皇の軍として陸軍は守るという狭量なものだった。しかし、鈴木にとっての守るべき国体とは、明治憲法下の立憲民主制だった。
連合国が日本に無条件降伏を迫るポツダム宣言が7月26日に通告された後も、同宣言に署名していないソ連への終戦工作にかけた。だが8月に入り広島、長崎へ原爆が投下され、ソ連の参戦で万策が尽きる。
鈴木は、これを終戦のための好機と捉えた。「この時を逃しては、国民は悲惨で不毛な本土決戦に巻き込まれる」と見た。一気に行動を起こす。
閣内では総辞職を決断すべきだとの声も出たが、鈴木はそれをしりぞけた。鈴木は自伝においてこう述懐している。「自己一身の全責任を持って、この戦争の終局を担当しようと決意した」。
8月13日の閣議では、それまでの曖昧な態度を捨てポツダム宣言受諾論を決然と主張する。翌日、天皇の前での御前会議で、天皇の聖断が下る。
明治憲法こそ国の基本と考える鈴木にとって、天皇の「聖断」で政策を動かすことは禁じ手であった。明治国家はあくまで立憲民主制であって、絶対君主制とは違う。主権者である天皇も憲法の制限下にあった。聖断を認めてしまうことは、「閣僚が天皇を輔弼(ほひつ=助ける)」と定められた憲法規定を超える超法規的措置となる。聖断を利用しての政策決定を鈴木は厳しく戒めてきた。
しかし、鈴木が決断した禁じ手によって、陸軍が固執する本土決戦は避けられ、国内外の軍はほぼ混乱なく武装解除に応じた。戦後が始まった。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『鈴木貫太郎自伝』日本図書センター
『近代日本のリーダーシップ』戸部良一編 千倉書房