ミラノの勅令
イエス・キリストが処刑されたのは西暦30年とされる。その後もヨーロッパから小アジアまで地中海世界を広く支配し続けたローマ帝国内では、キリスト教は邪教として厳しい弾圧と迫害を受け続けた。多神教を国家宗教とするローマ世界においては、唯一神の恩寵を説く東方の宗教は異端だった。その信者は憎まれ、虐殺が繰り返された。
キリスト教が帝国内で公認されるのは、313年に、西方の正帝コンスタンティヌスと東方の正帝リキニウスがミラノで会同して発した勅令を待たねばならなかった。勅令は、キリスト教を含む諸宗教への迫害の廃止、各教団の公認、迫害中に没収された財産の原状回復がうたわれている。現代でいう信教の自由を認めた画期的な勅令だった。その後、リキニウスはキリスト教弾圧に転じてコンスタンティヌスに滅ばされ、ローマ帝国は久々に統一された。このことをもってその後、コンスタンティヌスは、受益者であるキリスト教会において、十二使徒に次ぐ十三番目の使徒の扱いを受けるが、コンスタンティヌスの決断は、信仰というより、政治的改革意思に基づくものと見るべきだろう。
力による分裂から精神的統一の時代へ
コンスタンティヌスが帝位についた時代、帝国は乱れに乱れていた。各地に皇帝を名乗る勢力が生まれて権力争いが激化していた。それによる道徳的退廃も目に余るようになっていた。キリスト教の持つ精神世界を排除するより、受け容れて安定した統治に利用する方向にコンスタンティヌスは動く。時代は、力による統治の時代から精神統治の時代への分岐点にあった。コンスタンティヌスは、時代の流れを見逃さなかった。
政治史的にいうと、「対立・迫害」の時代から、「寛容」の時代への転機である。
その意図について、コンスタンティヌスの顧問を勤めた宗教家のラクタンティウスは次のように説得を重ねたという。
「真の神をさえ礼拝すれば、お互いすべて一つの父の子と考える人間の間に、戦争や不和など一切なくなるはず。不純の欲望、また怒りや利己的感情は。福音を知ればことごとく抑制される。すべての人間が公正と寛容で動くようになれば、為政者たちも破邪の剣を鞘に収め安心していられるはずだ」
宗教も金貨も統治のツール
コンスタンティヌスはキリスト教公認ばかりが史的業績として強調されてきたが、彼は現実的為政者だ。皇帝側近として影響力を大きくしていた近衛師団を廃止するなど軍政を改革して、異民族の侵入に効率的に対処した。また、帝国経済の重心が東方世界へ移りつつあることに配慮して、小アジアへの入り口に自らの名前を冠したコンスタンティノープル(現在のイスタンブール)を建設して政治の中心をローマから移し、その後のビザンチン(東ローマ)帝国発展の基礎を築いた。さらに品質の安定したソリドゥス金貨を発行してその後長く地中海交易の基軸通貨となる。
一方で、325年には、コンスタンティノープルに近いニケーアで宗教会議を主宰し、キリスト教の教義を統一し、異端論争による社会混乱を防止した。
彼にとっては、宗教も金貨も効率的な統治のためのツールだった。
しかし、やがて、公認された教会の力が大きくなりすぎて、暗黒の時代とも言われる中世の長い闇がヨーロッパを覆うようになる。世俗権力と、聖権力の距離とバランスはいつの時代にも難しいものなのだ。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『ローマ帝国衰亡史 3』E・ギボン著 中野好夫著 ちくま学芸文庫