ノルマンディ上陸作戦の主役を装う
第二次世界大戦の欧州戦線の転機となったのは、1944年6月6日に米英軍を主力とする連合軍が英国本土からドーバー海峡を越えて、北西フランスのノルマンディに大挙して上陸したDデイ作戦であることは疑う余地もない。ここからドイツの降伏(1945年5月7日)まで11か月を要するのだが、ドイツ軍はスターリンのソ連と激戦を展開した東部戦線で戦力の主力を失い、連合軍が欧州大陸に上陸した時点で大勢は決していた。
米大統領のルーズベルトと英国首相のチャーチルは、上陸作戦を綿密に打ち合わせて、満を持して実行するのだが、作戦の舞台となる当のフランスのド・ゴールには直前までDデイ(作戦決行日)は知らされていなかった。
同じ連合国でありながらアングロサクソン(英米)嫌いを公言して憚らないド・ゴールについて、チャーチルもルーズベルトも持て余している。上陸作戦には、ド・ゴールが海外で組織した弱小の「自由フランス軍」は絶対に参加させないとするチャーチルの説得に側近たちは苦労している。
実際に上陸作戦に参加した39個師団のうち、自由フランス軍部隊は1個師団にすぎない。しかも作戦で命を落とした4,572人のうち、4,141人が米英の兵士たちで、自由フランス軍の戦死者は19人に過ぎない。ドイツ軍が待ち構える上陸地点の正面は英米軍が引き受けて、自由フランス軍は敵のいない脇の海岸に上陸している。
ド・ゴールがフランス入りしたのは、九日目に作戦地点の視察に訪れたのみで、すぐさま当時拠点だった北アフリカのアルジェに戻った。そして彼は「フランス軍によって上陸作戦は成功し、英米軍がこれを援助した。祖国解放は近い」と表明している。
パリ解放の演出
しかし、上陸作戦成功の知らせは、フランス国内に留まりレジスタンス(ドイツ軍への抵抗)運動を続けるフランス人の愛国心を刺激する。ド・ゴールにとっては、自尊心をずたずたにされたフランス人の自負心を刺激することが、戦後復興につながると考えた。そのために、正義を貫き祖国解放のために一貫して戦ってきたという自らの「英雄神話」が必要だった。
危機において、民衆を鼓舞し結束させるには、英雄神話が不可欠の要素だ。ド・ゴールの演出は、その後のパリ解放でも実行される。
連合軍は、上陸後、パリを徐々に包囲し、ドイツ軍の守備隊を圧迫する。パリは陥落寸前だったが、連合国軍最高司令官のアイゼンハワー(後に米大統領)は、麾下(きか)の4個師団の前進を押しとどめ、遅れていたフランス軍師団の入城を優先させる。多くの米国人の血を流しながらも「祖国解放」の花をフランス人に譲った。米軍にはそれほどの余裕があった。フランス軍は米国製のシャーマン戦車を先頭にパリに雪崩れ込んだ。市民たちは歓呼でこれを迎える。8月25日朝、パリ駐留ドイツ軍司令官と、フランス軍司令官の間で署名された降伏文書に、英米軍のことはひとことも触れられていない。
「自力で解放されたパリ」
同日夕、パリに到着したド・ゴールは、パリ市庁舎でフランス史に残る演説を行う。
「パリ!蹂躙(じゅうりん)されたパリ!破壊されたパリ!迫害されたパリ! だが、解放されたパリ!フランス軍の支援と全フランスの、戦うフランスの、唯一フランスの、真のフランスの、永遠のフランスの、支持と支援をもって、その国民の手で、自力で解放されたパリ!」
もう一度言うが、危機を乗り越えるには、確かに英雄神話は必要である。しかし、ここまで言われてしまえば、もはや、神話の演出ではなく、情報操作だろう。それを臆面もなくやれることこそ危機の英雄の条件である。
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(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『ドゴール大戦回顧録』シャルル・ド・ゴール著 村上光彦、山崎庸一郎共訳 みすず書房
『ド・ゴール 孤高の哲人宰相』大森実著 講談社
『戦時リーダーシップ論』アンドルー・ロバート著 三浦元博訳 白水社
『フランス現代史 英雄の時代から保革共存へ』渡邊啓貴著 佐藤亮一訳 中公新書