キリスト教信仰の爆発的発展
ローマ帝国内で、邪教として迫害の対象だったキリスト教が、「ミラノ勅令」(313年)で公認されたが、勅令を発したコンスタンティヌス帝に思惑があったことは前回書いた。帝国内の政治的混乱が続き、衰退の兆しを見せ始めていた皇帝権力を、一神教を利用して立て直そうという狙いだ。
皇帝を名乗ってはいても、その権力はローマ市民と元老院に支えられてこそ力を維持できる。この二つの階層から見放されれば、力を失う。際どい力関係の中で権力行使を託されているにすぎない。「強い帝国」の復活を目指すコンスタンティヌスは、一神教の神の意思を後ろ盾にして盤石の権力を築こうと考えた。一神教なら、帝国内にはユダヤ教もあったが、ユダヤ民族の宗教の枠を出ない。多民族の共存国家であるローマ帝国としては、民族的枠を超えた普遍的な世界宗教を目指すキリストの教えは「使える」とにらんだのだ。その点で彼は政治的直観力に優れていた。
ミラノ勅令の後、コンスタンティヌスは、教団に皇帝資産を惜しみなく寄贈して教会を建設し、キリスト教に手厚い保護政策をとったことで、帝国内に信者は爆発的に増えていった。
聖と俗、権力の二重構造
キリスト教組織には、神の意思を信者に取り次ぐ司教が地域ごとにいる。司教を取り込むために、彼は、司教区が取り組む福祉事業と教育事業に人とカネを支援する。聖職者たちに対する公務と納税も免除した。司教は、重税にあえぐ庶民の減税にも口を聞くようになる。さらには司教区に司法権まで与える。
司法権まで教会に与えてしまうと、土地争いなど訴訟沙汰でも信者に有利に働く。そうなると「信者になったほうが断然得だ」との評判が高まり、信仰以前に現世利益を求めて信者は増える。身を危険にさらすことが多いことから守護神としてローマの神々を崇拝する軍団の兵士たちにも、信者なら礼拝のための日曜休暇を与えた。信者が増えないわけがない。
こうなると、ミラノの勅令が目指した帝国内の政治的安定のための「信教の自由」を逸脱して、キリスト教振興政策となり、国家の宗教政策としての公平性を欠く。コンスタンティヌスが当初目指した「宗教利用」から、逆に教団による権力利用の様相が色濃くなる。ここに至って帝国の支配は、力と法による皇帝の統治と、キリスト教の神と教団による心の統治という二つの求心点を持ついびつな楕円の権力構図が出現することになった。
キリスト教国教化
やがて、信仰という聖なる組織力が、人の力を信じて形成されてきたローマ帝国の政治権力を超える力を持つに至る。
紀元388年、すでにコンスタンティヌスは世を去っていたが、時の皇帝テオドシウスはローマの元老院議場に立って、議員たちに問いかける形で判断を迫った。
「ローマ人の宗教として、あなた方はユピテル(ジュピター=伝統的ローマ人が崇めた最高神)をよしとするか、それともキリストをよしとするか」
議員たちは圧倒的多数でキリストを選んだ。この日、人間が統治してきたローマ世界は事実上終わりを告げた。やがて、キリスト教はローマ帝国の国教に定められる。ゲルマン民族の侵入で西ローマ帝国は滅び(476年)、カトリック教会がヨーロッパ世界の主人公となる中世が始まる。
ヨーロッパの人々が、古代ローマ人が築いた人間中心世界の偉大さに気づくのは千年後のルネッサンス運動を待たねばならなかった。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『ローマ帝国衰亡史 3』E・ギボン著 中野好夫著 ちくま学芸文庫
『ローマ人の物語XⅢ 最後の努力』塩野七生著 新潮社
『世界の歴史10 西ヨーロッパ世界の形成』佐藤彰一、池上俊一著 中公文庫