民間の力で築いた明治の鉄道網
♪♪汽笛一声 新橋を、、、―鉄道唱歌にうたわれたように、新橋から横浜まで日本で初めて鉄道が開通したのは、1872年(明治5年)10月のこと。その後、明治の鉄道は新政府の力で順調に建設を進めたかと思われるが、そうではない。
欧米先進国の事情を繰り返し視察した維新政府の幹部たちは、鉄道が国防、物流を支えるカナメであることを熟知していた。しかし、資金がない。西南戦争で大量の軍事費を使い、さらに失業した士族たちに給与(秩禄)を支払うのに汲々として財政は火の車だった。新橋―横浜線をさらに京都、大阪、神戸まで、今の東海道線に延伸するのに尽力したが、そこで資金は尽きる。
政府は、国家主導で早急に全国に幹線鉄道網を張り巡らせる計画は立てていたが資金難から頓挫してしまう。
一方で、各地で地元の名士、地主らが鉄道建設に名乗りを挙げ、資金を募って鉄道会社を設立する機運が高まった。地方の名産、物資を都市部に輸送するメリットに気づいた。純粋に経済的観点から、投資先としても民間鉄道会社(私鉄)経営は有用だと踏んだのだ。
1881年(明治14年)には、最初の民間鉄道会社として日本鉄道が設立され、上野駅を起点に青森まで繋ぐ現在の東北本線のほか、常磐線、高崎線などの建設に着手する。
鉄道敷設の熱気
同社に資金を提供した横浜の実業家、高島嘉右衛門(たかしま・かえもん)は、工部省に提出した建言書で熱く説いている。
「政府は、維新の大業に莫大な費用がかかっているだろうが、東京より青森を鉄道で結ぶ事業は、他に換えられない緊要の急務である」。続けて、政府が北海道開拓に力を入れていることに触れ、それを成功に導くためにも首都と北海道を鉄道で結ぶ重要性を強調している。
近畿地方でも、関西鉄道、大阪鉄道などの民営鉄道会社が次々と設立された。現在の大阪―奈良―京都、大阪―和歌山、奈良―名古屋など主要都市間を結ぶ現在のJR(旧国鉄)の路線は、民間の出資で明治の中期には完成している。苦難の時代にも民間の力は恐るべき効果を発揮する。
1906年(明治39年)の段階で、幹線鉄道のうちで国営のものは、東海道線のほかは北陸線しかなかった。東西を結ぶ大動脈を見ても、神戸から西の山陽線は山陽鉄道、北九州一帯の路線は九州鉄道が建設、運営している。
国営鉄道の総延長2,473kmに対して、38社を数える私鉄の総延長は、5,278kmと圧倒していた。
国有化をめぐる激しい論争
財政難から鉄道の建設を民間活力に頼らざるを得なかった明治政府だが、当初から国有化の機をうかがっていた。1891年(明治24年)、政府は帝国議会に私設鉄道買収法を提出する。しかしこれは、鉄道既得権者の反発を買って否決された。
この論争の過程で、資本主義の父とされる渋沢栄一や、三井、三菱財閥経営者ら財界人が、強く反発する。渋沢らは「将来の鉄道は、(すべて)私設民営たるべし」と主張して、政府が建設した鉄道も、民間に払い下げるべきだとの論陣を張った。政府事業の非効率を排して民間に任せたほうがいいとの考えだ。今に通じる観点だ。
結局、日清、日露の戦争を経て、軍部は国家動員による輸送の効率化を主張し始めて、鉄道国有化を強く後押しする。
そして、日露戦争直後の1906年(明治39年)、西園寺公望(さいおんじ・きんもち)内閣のもとで、紆余曲折の末に鉄道公有法案は帝国議会に提出され、賛成多数で可決された。私鉄は近接都市間輸送に限定された。
その後、国有化された日本の鉄道は、政治家たちが自分の地元に需要の見込めない新線を誘致する「我田引鉄」と呼ばれる政治の道具となる。必要性と合理的判断を欠いた政治力誇示の新線競争は、日本の鉄道経営を堕落に追い込んでゆく。
渋沢らが警告したのは、国家による事業運営の危うさを予見したからである。(この項、次回へ続く)
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考資料
『日本の歴史21 近代国家の出発』色川大吉著 中公文庫
『日本の歴史22 大日本帝国の試練』隅谷三喜男著 中公文庫