軍国主義化への分岐点(軍縮の決断)
第一次大戦と第二次大戦の間にある「戦間期」の20数年は、近代日本にとっては大きな分岐点だった。
日本は戦場とはならなかったが、連合国の一員として対独戦争に参戦し戦勝国に名を連ねた。戦後に誕生した国際連盟では常任理事国(4カ国)の一員となる。壊滅的な戦禍を被った欧州各国に代わり工業生産品の重要輸出国に躍り出て、一躍国際社会の注目を浴びることとなる。
第一次対戦後、世界は国際協調主義に立ち、社会、経済、外交的にも大きな変革期にあった。日本国内でも大正デモクラシーの流れの中で、大衆の生活と地位が向上し、「今が第二の明治維新で、国際社会に打って出るチャンスだ」との機運が高まる。しかし、結果的には、世界恐慌の影響で不景気が続き、「世界での主要な地位を占めるには軍備拡張が必要だ」との軍部世論に押し切られて、1930年代は国家統制的な流れの中で大陸拡張策をとり、破滅への道を突き進むことになる。
この流れに真っ向から対抗した政治家がいた。濱口雄幸(はまぐち・おさち)だ。高知の平民出身で大蔵官僚から政治家に転身した濱口が首相に就任した1929年7月は経済、軍事的に多事多端だった。前任の田中義一内閣は中国での軍事拡張政策で失敗したが、海軍は、英米が主導した主要艦船の軍縮(ワシントン条約・1922年)に不満を燻らせていた。日本の中国進出に危機感を抱く両国はさらなる軍縮を日本に求めてきた。
経済に明るい濱口は、経済立て直しのためには緊縮財政が必須で「軍拡などもってのほか」との持論をもつ。重要な地位を占める国際連合の一員としての義務感も持っている。貿易立国のためには英米との協調が重要だとのビジョンもあった。彼は厳しい世論を押し返して、ロンドンでの軍縮会議に軍人ではなく、政党政治家の若槻禮次郎(わかつき・れいじろう)を全権として送り込み、軍縮案を飲んだ。
経済優先の視点
濱口にとって、何より大事なのは経済であった。政権発足にあたって、発表した十大政綱(公約)は、「政治の公明」から始まるが、十項目のうち経済に関するものは、「財政の整理緊縮」「非募債と減税」「金解禁」「社会政策の確立(産業合理化)」の四項目に及ぶ。金解禁による金本位制の復帰も彼の手で実現される。戦時体制で各国が行った金の囲い込み政策を、各国が解除して国際金融秩序に復帰する中、日本だけが取り残されていた。遅ればせながら日本も金本位制に復帰して、経済システムを国際基準に戻そうというもので、濱口が追求する国際協調路線に則ったものだ。軍部が要求する軍拡などもってのほかだという、彼の一貫した強い政策意思が感じられる。
十大政綱の今一つの眼目だった「中国政策の刷新」は、大陸への軍事拡張政策を改めるもので、外交に関して、「進んで国際連盟の活動に協調し、以って世界の平和と人類の福祉とに貢献するは、我が国の崇高なる使命に属す」と高らかに言明している。こういう健全な戦前もあったのだ。
大衆を味方につけるメディア利用
日本政治が暗黒の時代に向かう直前の時代、濱口が掲げる理想主義に対して、軍部や一部右翼はもちろん猛反発したが、一般大衆はどう受け止めたか。1930年2月の第二回普通選挙で、彼が率いる民政党は、これらの政策を訴えて、圧勝する。濱口の理想を支持する健全な民衆がいた。
軍部に対する政党政治の優位性を信じる濱口は大衆の支持を得るために積極的に動いた。首相就任直後から、持論を「国民に訴ふ(訴える)」というパンフレットにして、全国1300万戸に配布した。またラジオを通じて国民にわかりやすく訴える。そのラジオ放送は、通常の聴取者60万人を大きく超える400万人が耳を傾けたとされる。
そして、危機感を感じた右翼の青年が、1930年(昭和5年)11月14日、東京駅頭で濱口に凶弾を放つ。一命を取り留めた濱口はこの傷が悪化して翌年、死去する。
理想は死に、日本は奈落へと転落してゆく。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『日本の近代5政党から軍部へ』北岡伸一著 中公文庫
『日本の歴史23 大正デモクラシー』今井清一著 中公文庫
『近代日本のリーダーシップ』戸部良一編 千倉書房