非暴力抵抗運動か、自衛暴力の容認か
黒人の公民権獲得と人種差別の撤廃を求めた運動を牧師として指導したマーティン・ルーサー・キングだったが、黒人社会の中には、「非暴力による抵抗」を訴えるキングの運動方針に対しては、必ずしも絶対的支持があったわけではない。とくにスラムに暮らす貧困層の黒人にとっては白人社会から振るわれる日常的な暴力に対して「非暴力では現実に身を守れない」という不満が燻っていた。
たとえば、黒人運動家の一人、ロバート・ウイリアムズは、連邦政府の影響力が及ばない無法地帯においては、「暴力には暴力で自衛するしかない」と武装自衛を呼びかけた。現実に、彼が育ったノースカロライナ州のモンローでは、白人少女とキスしただけの10歳以下の黒人少年二人に対して白人陪審員が有罪評決を行い無期限で少年院に収監された。一方で、黒人の妊婦を強姦した白人を無罪とするなど、法の正義は履行されていなかった。
ウイリアムズは、1959年9月、雑誌上で「キングは成功した指導者だが、非暴力が通用するのは相手が文明化されていればのことで、南部のサディスト(過激な白人の差別主義者)に対しては効力がない」と、キングを公然と批判し、スラムの黒人たちを刺激した。教会の説教で黒人信者を運動に動員するだけでは、権利獲得どころか、白人の暴力の前に敗退するだけだという主張だ。
マルコムXとブラック・ムスリム運動
イスラム教の平等主義を運動の思想とするブラック・ムスリム団体では、さらに過激な思想も大きな支持を集め始める。マルコムXは、キングの説く「黒人と白人の人種統合による社会改革」は絵空事だと笑い、黒人社会の白人社会からの分離を訴えた。
「暴力には暴力を」という考えに対しては、キングは、それは、さらに強大な白人側の暴力をうみ、黒人社会の中に分裂を呼ぶとして反論したが、路線の差による運動の行方に暗雲を投げかけた。
キング自身、運動の中で刺されることもあり、自宅を爆破されたこともある。キングは、非暴力抵抗運動を続けることで目にみえる成果を必要とした。
1959年、キングは非暴力抵抗運動の原点であるインドへの旅に出る。各地でガンジーの足跡をたどり、人々の話を聞いてまわって、偏見を打ち負かして社会改革を勝ち取るためには、「非暴力抵抗運動による大衆動員が有効である」と確信し帰国する。
「私には夢がある」(I Have a Dream)
帰国後、各地での権利要求のための座り込み、デモを指導する。頑迷な白人優位社会がついに動く。民主党大統領のケネディは、1963年6月、公民権法案を議会に提出する。
キングは、公民権法の早期制定を求めるための大デモをワシントンで行うことを呼びかけた。同年8月28日、首都ワシントンのリンカーン記念堂前の広場は、黒人、白人の枠を超えて各地から上京した20万人の人々で埋め尽くされた。
警官隊の暴力が全国に報道されたバーミンガムの抗議運動(同年4月)の後、全国186の都市で758のデモが非暴力で繰り返された。ワシントンへの集結は、盛り上がる一方の運動の熱の結果だった。
大群衆を前に演説に立ったキングは「私には夢がある」と語り出す。
〈私には夢がある。ある日、ジョージアの赤土の丘の上で、かつての奴隷の息子たちと、かつての奴隷所有者の息子たちが、兄弟愛というテーブルにともにつくことを。私には夢がある。ある日、不正と抑圧という熱で苦しんでいる不毛の州、ミシシッピーでさえ、自由と正義というオアシスに変わることを。私には夢がある。私の四人の子供たちがある日、肌の色ではなく、人格によって判断される国に住むことを〉
翌年7月、民主党のジョンソン政権下で、公民権法が成立し、法の上での人種差別は撤廃された。だが、アメリカ社会での人種差別意識はいまだ根強い。
ケネディ暗殺(1963年11月)、マルコムX暗殺(1965年2月)、キング暗殺(1968年4月)。それぞれの事件の真相と背景は未だに謎だ。民主主義のお手本、アメリカ合衆国において、暴力による闇はあまりに深い。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考資料
『黒人差別とアメリカ公民権運動』ジェームス・M・バーダマン著 水谷八也訳 集英社新書
『マーティン・ルーサー・キング 非暴力の闘士』黒崎真著 岩波新書
『キング牧師とマルコムX』上坂昇著 講談社現代新書

















