跡取りの暴走
関ヶ原合戦の功により筑前福岡藩52万石を治めることになった外様の黒田長政(くろだ・ながまさ)は跡取り問題で悩みを抱えていた。長男の忠之(ただゆき)は粗暴な性格で、とても世継ぎの器ではない。そこで三男の長興(ながおき)に家督を譲ることにした。忠之には「百姓になるか、大阪で商売でもやれ」と言い渡す。
これに忠之の後見役の栗山大膳(くりやま・だいぜん)は、「それでは家中がおさまりません」と猛抗議し、廃嫡を思いとどまらせる。
長政は急死し、忠之が23歳で二代藩主におさまった。父の代からの家臣の間で悪評が立てられて面白くない二代目は、周りにイエスマンばかりを置き、重臣たちの意見は聞かなくなった。見栄っ張りの忠之は幕府の御法度で禁じられている大船「鳳凰丸」を建造する。突如、大坂沖に姿を見せた豪華船に幕府の御船奉行を驚かせ、咎めを受ける騒ぎとなった。
これは大膳らが、「側近たちの仕業で殿のあずかり知らぬこと」ともみ消しに奔走し、ことなきを得たが、その後も自らの強引な側近人事、政策に異議を唱える家臣たちを次々と切腹させるなど暴政を敷く。
このまま若様の暴走が続けば、幕府も対応することになる。徳川の治世も三代目の家光の時代となり、幕府の威光を世に示すため、家康以来の功臣であれ、外様の動きには敏感である。世継ぎの混乱に乗じて雄藩の取り潰しも相次いでいた。実際に九州では猛将加藤清正の後を継いだ加藤忠広に謀反の疑いをかけ、熊本から改易している。
長政から忠之の面倒を見るように仰せつかっている大膳は諫言を繰り返すが、聞く耳を持たない。暴政は幕府の耳にもいずれ届くだろう。主家の改易だけは避けなければならない。
栗山大膳の賭け
お家の中の混乱ならなんとか凌げるが、やがて忠之は藩内の領民を激怒させるトラブルを起こす。鷹狩りの猟場をあちこちに設定し、農民を締め出したのである。これを強く諌めた大膳はついに忠之に放逐された。
ここで大膳は賭けに出る。九州地区の諸大名の目付け役である豊後府内藩主・竹中重義を通じて、幕府に「忠之に幕府への謀反の意志あり」と上訴に及んだ。まかり間違えば、改易どころか黒田家お取り潰しの危機である。これでは大膳による主家への叛逆である。
大膳にはお家を護る勝算があった。黒田家の事情に通じた竹中重義との阿吽の呼吸である。幕府によって大膳自らを切り捨てさせ、忠之に改心を迫る荒療治だった。
幕府は藩主の忠之と大膳を江戸に呼び出し吟味に及ぶ。最終的には将軍・家光の裁可を仰ぐことになる。
家光は、「謀反の疑いは、たびたびの諫言を聞き入れられなかった大膳の狂気に基づく申し立てであり、忠之に咎(とが)なし」と結論し、大膳を盛岡藩に配流し、南部家預かりの処分を下した。
一方で、吟味の過程で忠之と側近による暴政も明るみに出て、幕府は、老中たち評議の上で、忠之に対し、独断を避け老臣たちと合議の上で今後の藩政運営にあたるよう、きつく言い渡した。合わせて忠之のイエスマン側近も高野山に追放した。
その後の忠之は、側近政治を改め、長崎警護を任されるなど、名君として讃えられている。
幕府のお家事情をよむ
「狂気」の汚名と引き換えに黒田家を守り、主君に更生の機会を与えた大膳は、配流の身ながら、幕府から不自由のない生活ができる扶持を与えられ盛岡で生をまっとうした。幕府の配慮が垣間見える。
幕府としても、ようやく創業以来三代目で経営が安定しつつある中で、肥後の加藤家に続いて、福岡の黒田家という雄藩の処分で、江戸から遠い九州の情勢の不安定化を避けたかった。
さらにまた、家光にも二代目忠之に同情し、処分を避けたい事情があった。家光は三代目として、「生まれながらの将軍」を公言して憚らなかったが、父秀忠が後継者として熱望したのは、弟の忠長(駿河大納言)だったことを承知していた。それを祖父家康の判断で、家光が家督を継いだ。親から認められない自分と、優秀な弟の複雑な関係に、忠之の家督相続を合わせ見ていたろうことは想像にかたくない。また、忠之の母は家康の養女でもある。
幕府の窓口となった竹中重義とのやりとりの中で、幕府と将軍家が抱える事情を知り、家光が忠之に厳しい処分はしない、と大膳は読んだ。そう慎重に読み切った上での上訴だった。
たとえ、いたらぬ二代目に仕える辛さはあったとしても、安易に大膳の真似をすると大火傷するから御用心を。
※参考文献
『徳川三代99の謎』森本繁著 PHP文庫
『別冊歴史読本 御家騒動読本』新人物往来社
『二代将軍・徳川秀忠』河合敦著 幻冬社新書