不服従を象徴する綿と塩
1915年に帰国したガンジーは、インド独立運動に身を捧げるが、彼にはまだ、植民統治者の英国も段階的にインド人による自治の拡大、独立容認に動くだろうとの甘い期待があった。しかし、英国は逆に、インド人の自治要求を力で弾圧するに及んで、ガンジーは運動の強度を上げてゆく、1919年から24年にかけては、弾圧強化のためのローラット法に抗議する集団的不服従運動を組織し、英国製品のボイコット、焼却、官立学校のインド人教職員、学生対して辞職、退学を呼びかけた。
さらに1930年には、インド国民会議の大会での「独立の誓い(宣言)」を契機とした、大規模デモ、1942年から44年にかけては、植民地当局公務員によるゼネストに取り組む。ガンジーは六度、逮捕、投獄されたが、不屈の闘志で出獄のたびに戦い続ける。
英国の官憲が暴力的に弾圧に乗り出しても、ガンジーは常にデモ隊列の先頭に立って、素手で非暴力を貫いた。
植民地支配を象徴する英国ランカシャー製の綿製品排斥のために、運動参加者には、自分たちで紡いで織った綿服の着用を呼びかけ、自らも粗末な綿布を身にまとう。しばしば、自ら綿糸を紡ぐ糸車を回すパフォーマンスで、伝統的なインド人の生活を守れと訴えた。
また、英国が生活必需品の塩を専売し高額な税を課したのに抗議して、集団で海岸へ行き、海水を煮て、塩の自給の権利をアピールした。綿と塩の二つが、非暴力抵抗運動のシンボルとなってゆく。
農民を立ち上がらせる
ガンジーが、インド独立運動を率いるにあたって、もっとも気を使ったのは、いかに農民たちに植民地支配の暴虐を気づかせ、立ち上がらせるかだった。植民地インドの当時の人口3億人の9割以上が農民だった。しかも識字率は5%程度。独立運動に参加するのは、ひと握りの知識人で植民地エリートたちばかりだ。膨大な農民たちを運動に巻き込んでこそ、独立運動は燎原の火のようにインド全土に広がる。
だが、極貧の生活を強いられる農民たちは、その日の生活に追われ、政治的主張は耳に届かない。文字を読めない人々にビラで呼びかけることも容易ではない。彼らに立ち上がるように促すには、身近な問題を訴えるほかない。衣と食だ。「なぜ、われわれは、自分たちがつくり出す綿と塩が自由にならないのか」という植民地統治の矛盾をわかりやすく訴えるために、ガンジーは糸車を回してみせ、海辺で非合法の塩作りをやってみせたのだ。
効果は絶大だった。たとえば、ガンジーが1930年3月から4月にかけて、グジャラート州の海岸の村を目指して歩いた「塩の行進」だ。78人の支援者とともに出発したが、沿道の村々を通るたびに農民たちが合流し、300キロ離れた海岸に到着した時には約8000人の群衆に膨らんでいた。
この「塩の行進」は同行した記者たちを通じて世界中に発信された。海岸到着後、ガンジーは、煮詰めた塩の塊を高々と掲げて言った。「これで私は、大英帝国の土台を揺るがしたのだ」。この行進に英国は武力弾圧は控えたが、のちにガンジーを含む6千人が逮捕、投獄された。逮捕されるごとに支持者は、増えていった。
取り残された宗教対立の溝
塩の行進をきっかけに盛り上がる独立運動に、英国のインド統治は大きく揺らぐ。第二次世界大戦後の1947年、インドは独立を勝ち取る。大戦で疲弊した大英帝国は次々と海外植民地を手放す。
だが、ガンジーには心残りがあった。当時のインドは、国内にヒンズー教徒とイスラム教徒の深刻な宗教対立を抱えていた。ガンジーは常日頃、「私はヒンズー教徒であり、イスラム教徒でもある」と話し、宗教を超えた多民族、多文化国家としてのインド独立を訴え続けてきたが、英国の撤退後、両教徒の武力対立が激化し、結局、イスラム教徒中心のパキスタン(現在のバングラデシュを含む)が分離独立してしまう。
ガンジーは、独立の翌年1月30日、「イスラム教徒への対応が甘すぎる」と反発するヒンズー教過激派の青年の銃で暗殺された。統一インド独立の夢は果たされなかった。宗教対立の闇は、当時も現在も世界を覆う。
ガンジーが高く掲げた「非暴力抵抗運動」の理想は、米国の黒人公民権運動を率いたキング牧師に引き継がれてゆく。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考資料
『ガンジー自伝』マハトマ・ガンジー著 蠟山芳郎訳 中公文庫
『ガンディーの真実』間永次郎著 ちくま新書





















