1967年が米の自給達成と米余りの転換点
食糧不足解消に向けて懸命に米増産の努力を続けてきた日本農業が、大きな転換点を迎えたのは、1967年(昭和42年)のことだった。主食用米の生産量がついに需要量を上回る。米の自給が達成された。戦前にも自給は達成されていたが、それは台湾、朝鮮という植民地の米生産に頼っていたお陰で、植民地を失った戦後の日本がようやく自前で米を賄えるようになった年だ。。
背景には、農家の努力もあるが、他収穫米への品種改良や、効率の良い米づくりのための農地整備があった。国は、昭和24年に土地改良法を施行して、地域単位の土地改良区ごとに補助金を投入して、複雑に入り組んだ農地を整理して農業機械を入れやすい規格の四角い農地に作り直させた。土を入れ替え、用水路整備にも国費を投入してきた。単位面積あたりの米の収量は、戦前の1941年と比べると、1967年には1.5倍へと急増している。
喜ぶべき事態なのだが、政府は新たな課題に直面しつつあった。都市部を中心とする国民食生活の多様化で、米の消費は1960年代に入り落ち込みを続けている。米が余り始めていた。1970年には、市場空前の720万トンの米が余った。米自給が達成したのも束の間のことで、東京ドーム7杯分の米が政府の手元に残ってしまった。
逆ザヤによる政府の赤字
さらに政府の米政策は大きな矛盾を放置してきた。安定した生産と配給を目指した食管法のもとで、政府は農家が生産した米の全量買い付けと全量売り渡しを前提としていることは前回見た通りだ。ところが生産者団体の圧力が強く、政府の買い上げ公定価格が売り渡し価格を上回る逆ザヤが1965年から発生し、放置されてきた。1971年には、買い上げ価格は5キロあたり710円で、売り渡し価格は、同615円。この年から1984年までに積み上がった食管会計の赤字額は3兆円にも上った。
政府は、政府倉庫に積み上がった米を少しでも減らそうと、余った米を輸出に回した。余り知られていない話だが、1971年には80万トンが国外へ回った。輸出は毎年続き、1979年には90万トンが韓国、インドネシア、バングラデシュなどに渡る。しかし、当時の日本の米価格は国際市場価格を大きく上回っていたことから、商業ベースにはのらず、援助米や延べ払い方式の貸付米として援助外交ツールに使われた。この費用も政府が負担することになる。ところが、この援助輸出が、1979年に米国から「不当廉売ではないか」とクレームがついて中止せざるを得なくなった。
米を作らせない政策
米余りを解消するには、消費量を増やすか、生産量を減らすしかない。飽食の時代に多様化する主食の嗜好をコントールすることは難しい。「パンをやめてご飯を食べましょう」と言ったところで効果は期待できない。結局、政府がとったのは、米の生産量を減らす「減反」政策だった。
政府は、1969年、米の作付面積を全国で1万ヘクタール減らす目標を掲げる。この減反面積を都道府県に下ろし市町村単位で振り分けた。要請とは名ばかりで、強制力を伴う割り当てだった。
この生産調整に協力した農家には、「米の作付けをやめた農地」に、10アール(一反歩)あたり3万5000円の補助金を支給した。この年の大卒の初任給は、3万9900円だから、1ヘクタールの田んぼで作付けをやめた農家には、大卒サラリーマンの年収に匹敵する額がばらまかれたことになる。
減反政策は、2018年(平成30年)で終了したとされているが、現在も、米以外の作物へ転換した農地には補助金が支給されており、同じ発想での米生産管理は続いている。そして今、「米が足りない」と問題になっている。
「米増産」の掛け声とともに多様な補助金が注ぎ込まれ、「米作るな」の号令に合わせてまた、金がばら撒かれる。一貫性のない戦後の米づくり政策は今も続いている。
一貫性のなさの原因は、いつも政府が対症療法ばかりに終始しているからで、50年、100年先を見据えた日本農業の理想像を描けていないからだ。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考資料
『日本のコメ問題』小川真如著 中公新書























