「ハンニバルがイタリアでやったことを北アフリカでやる」。固い決意のもと、ローマ軍を率いるスキピオは、紀元前204年の夏、シチリアから、敵の本拠、北アフリカに上陸する。
スキピオの狙い通りにカルタゴは翌年、ハンニバルをカルタゴに召還した。その数は一万五千に満たなかったという。
スキピオの狙いはもう一つ当たった。カルタゴ軍の主力、精強ヌミディア騎兵を率いてきたマシニッサが、ヌミディアの政争に敗れ、スキピオの陣営を訪ねて来た。
「私にはもう、二百の騎兵しかない」と消沈するマシニッサをスキピオは励まし、事実上の副将に据えた。父を死に追いやった敵を許し取り込んだのだ。
開戦前の状況に戻り、両国は講和の道を探る。しかし、互いに決戦に備えての時間稼ぎでしかなかった。激突は秒読みとなった。
ハンニバル召還から一年後の春、両軍はカルタゴの内陸部ザマの平原で向き合う。
総兵力ならカルタゴ5万対ローマ4万だが、騎兵の数では4千対6千とローマが上回る。そのローマ軍騎兵をマシニッサが指揮する。
ハンニバルは象八十頭を先頭に立てる陣形。象部隊の突撃にかけるハンニバルの作戦を読み切ったスキピオは、歩兵部隊の間に通路を空けて象部隊をやり過ごし、歩兵が激突した。
歩兵戦はハンニバル軍が押し込んだが、両翼の騎兵に優るローマ軍はやがてじわりとカルタゴ軍を包囲し、大勝利をおさめる。
スキピオは敵ハンニバルから学んだ包囲戦術をとり、カンネーでの大敗北の屈辱を、ハンニバルになめさせた。彼我逆転して。
ハンニバルとスキピオ。ともに傑出したリーダーで甲乙はつけがたい。経済力ではカルタゴが上回る。なにがローマとカルタゴの勝敗を分けたのか。
市民兵部隊のローマ軍と、傭兵主体のカルタゴの兵の祖国防衛への決意の差だとの評価もある。ローマ共和制の勝利ということか。それだけではあるまい。
ローマには、ハンニバルに攻め込まれ連戦連敗の中でも裏切らずローマを支えた多くの同盟都市が寄せる信頼があった。
一方でカルタゴは、隣国ヌミディアや、事実上の植民統治下においたスペインも、敗色が濃厚となるや観望を決め込む関係しか築けなかった。
通商国家として「金さえ出せば盟友関係、勝利は買える」との驕りがなかったか。湾岸戦争での対応を見るまでもなく、金で平和は買えると考えてきた身近な国の姿がちらつく。
敗れたハンニバルは、将軍職を辞し、やがて地中海東岸のシリアに逃れる。カルタゴが滅ぶまでには、まだ時があった。 (この項、次週へ続く)