本能寺の変から25日後、天正10年(1582年)6月27日、明智光秀の謀反に天下統一の志半ばで急死した織田信長の重臣たちが、清州城に集まり後継問題を協議した。
世に言う「清須(清洲)会議」である。岐阜城で開かれたとの説もあるが、場所はいかにあれ、興味があるのは、“臨時取締役会”ともいえる会議の進行である。
不慮の事故で会長(信長)と長男の社長(信忠)を一気に失った直後だけに、会議の場は緊迫していた。
天下を牛耳るオーナー企業だけに、後継社長は一族から選ぶしかない。その点では集まっただれにも異論はなかった。
亡くなった会長が遺した次男の信雄(のぶかつ)、三男の信孝のいずれも、家督の継承を狙っている。
会議を招集した番頭格の柴田勝家が口火を切った。
「誰が後継にふさわしいか、ご意見をたまわりたい」
参集したのは、勝家のほか、羽柴(のちの豊臣)秀吉、丹羽長秀、池田恒興(つねおき)の面々である。誰もが押し黙ったままだった。
それを見てとって勝家は言う。「信孝様がよろしいのではないか。年頃でもあり才気もおありだ。いかがか」
秀吉が口を開く。「勝家殿の意見はもっともである。だが、しかし…」。緊張が走った。
勝家が信孝を買っているのは、皆が知るところ。次男の信雄はムラッ気があり信望がない。しかし、番頭風を吹かせる勝家と仲の悪い秀吉が信雄を推せば、少々面倒なことになる。一同、秀吉の続く発言を待った。
「ごもっともであるが、筋目を通されるなら、亡くなった信忠様には嫡男がおありではないか」。2歳の三法師(のちの秀信)のことだ。
「幼少とはいえ、勝家殿以下みなで力を合わせれば問題はあるまい。私はそう思うが」
信長が目指した天下統一は目前まで来ている。重臣のだれもが主導権を握ろうとの思惑を腹の中に秘めている。その中で、“中国大返し”で仇敵の明智光秀を討ち功績大の秀吉が、勝家も覚悟していた「対決」を避け筋論を通してきた。
「筋目、それはそうだが…」。沈黙が流れる。
「持病が出てきたので少し失礼する」と言い残して秀吉は別室に退いた。 (この項、次回に続く)