歴史をひもとけば、英雄と呼ばれた男は数知れない。だが英雄のままで生を全うした例を聞かない。
稀代の革命児、国民を鼓舞し危機から救済した時代の寵児、傑物たちはみな、陰惨な最期を迎える。「英雄」という単語は「悲劇の」という哀愁を帯びた形容句で修飾されるのが常なのだ。
何故か?
絶頂期に、「余の辞書に“不可能”の文字はない」と吐いたとされるナポレオン・ボナパルト(1769年〜1821年)も例外ではない。
イタリア沖のフランス領コルシカ島の地方貴族の家に生まれ、絶対王政を打倒したフランス革命(1789年)後の混乱期に軍人として世に出た男は、その軍事的天才を遺憾なく発揮して国内の政治的混乱を収め、1804年には世襲を前提とした皇帝に上り詰めた。
当初は王党派志向の強かったナポレオンだが、この頃には「自由、博愛、平等」というフランス革命の理想の守護神としてフランス国民の圧倒的支持を集めていた。
皇帝となったナポレオンは、軍事力を背景にフランス革命の理想による欧州の統一を目指すようになる。
しかし、こうしたフランスの革命的動きは、王制を維持するオーストリア、プロイセン、ロシアなどヨーロッパ諸国に大いなる危機感をもたらした。
英国は、不安感をテコに各国を組織してフランス包囲網を執拗に構築し、ナポレオンに対抗した。
英国も王制をとるとはいえ、すでに市民の力で王権を制限する立憲君主制への市民革命を成功させている。
英国の真の思惑は、体制問題にはなかった。産業革命によって工業国家として製品輸出先の欧州大陸に築いた自国の経済支配の優位をナポレオンに奪われたくないことにあった。
英国の執拗な抵抗にも関わらず軍事侵攻で欧州の中央部をほぼ手中にしたナポレオンは1806年、支配下の各国に英国との貿易を禁じる「大陸封鎖令」を発動する。
しかし4年後、ロシアは封鎖令を破って英国との貿易を再開する。
「ロシアはわれわれに不名誉か戦争かを選べという。結論は決まっている。進軍しようではないか」。
1812年、ナポレオンはフランス軍に同盟軍を加えた60万の大軍でロシアに侵攻することを決断する。
これが英雄ナポレオンの悲劇への分岐点となった。(この項、次回に続く)