大志を抱きながらも「三日天下」に終わった明智光秀。一方で、光秀謀反による織田信長の死という事態に素早く対応した豊臣秀吉、じっくりと大局から布石を打ち続けた徳川家康はともに天下をわがものとした。
敗者と勝者を分けたのは、人の取り込みの妙であった。
秀吉が天下取りに成功したのは、備中高松城攻めから電光石火取って返した〈中国大返し〉にあったことは論を待たない。
蔭には、毛利家の外交僧、安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい)の存在がある。
織田家の家臣として毛利との外交に秀吉が携わるようになったのは、本能寺の変の十年以上前に遡る。敵同士とはいえ、互いに腹の内が手に取るように分かるようになっていた。
急転直下の和睦を毛利方で主導した恵瓊は、主戦論を押し切り、なかば独断で、高松城主の切腹と引き換えの和平をまとめあげた。
元をただせば恵瓊は、毛利に滅ぼされた安芸武田氏の遺児であった。その微妙な立場を秀吉は熟知し、時間をかけ信を結んだ。
恵瓊は、早い時期に「信長は五年もすれば、高転びに、あおのけに転ぶであろう」と、滅亡を予言していたという。
和睦をまとめた段階で彼が信長の死を知っていたかどうかは微妙だが、大局の流れを読み、いずれ秀吉の天下が来ることを予測していたことは間違いない。
政権をとるや秀吉は恵瓊を取り立てて側近とした。
また、光秀が謀反後に援軍として期待した細川藤孝が秀吉と意を通じていたことは先に書いたが、守護大名出身の名門・細川家を秀吉は早くから出世の要諦として注目していた。
一朝一夕の関係ではない。秀吉は大幅な加増で細川家の功に報いている。
人を取り込み敵を作らないことにかけては家康の右に出るものはいない。
信長の伊賀攻めから逃れた伊賀衆を三河にかくまい、本能寺の変後の伊賀越えに生かしたことにはすでに触れた。
さらに信長の甲斐攻めで滅んだ武田の遺臣たちも家康は取り込み、その後の甲斐、信濃併呑の先兵としている。
敵を作らぬ究極の家康人事がある。光秀謀反の共謀者として斬首された光秀側近・斎藤利三の後裔(こうえい)のことである。
家康は天下を取ったあと、利三の娘、福を、孫の竹千代の乳母に採用した。
福とは春日局であり、竹千代は長じて三代将軍家光となる。
家康と光秀から一字ずつ取って家光、というのはうがち過ぎかもしれないが、謀反人をも抱え込む驚きの人事ではある。
光秀の決起なくしては徳川三百年の治世はなかったことは歴史が示す事実なのだ