壇ノ浦合戦の源氏勝利の一か月後、鎌倉の頼朝の元に届けられた梶原景時(かげとき)の書状には、連綿と義経批判が書かれていた。
「判官殿(義経)は功に誇って傲慢であり、武士たちは薄氷を踏む思いであります。そば近く仕える私が判官殿をお諌めしても怒りを受けるばかりで、刑罰を受けかねません。合戦が終わった今はただ関東へ帰りたいと願います」
種々の源平合戦記には、壇ノ浦に先立つ四国の屋島合戦で、義経との合流を目指した景時(かげとき)が間に合わなかったこと、壇ノ浦での二人の先陣争いなどの個人的恨みを、確執の遠因としている。
しかし、対立は、そうした私的怨恨を超え、義経の行動に根ざしていた。
頼朝は義経の出陣に先立って前年、範頼(のりより)に主力の東国武士をつけて、西国へ派遣している。しかし、義経は西国武士と水軍を率いて電撃的に勝利した。
海上合戦能力のない東国武士たちは、陸上から海上決戦を見守るしかなかった。これが恨みを買った。
鎌倉殿(頼朝)と、彼を棟梁と仰ぐ東国武士の関係は恩賞・給与によって支えられている。頼朝に逆らうものは攻伐する。奪った土地を頼朝に従い攻伐戦に功績があったものに分け与える。
この恩給の見返りがあるからこそ、東国武士たちは遠地での戦いにもおもむき命をかけて戦う。「一所懸命」の仕組みである。義経の素早い勝利は、東国から遠征した武士たちから勲功の機会を奪った。
さらに義経は壇ノ浦後、範頼(のりより)に任されていた九州の平氏の土地の収用に口を出し、武士の論功にも着手した。
勝利に酔う義経は、頼朝が独占すべき権限に手をつけた。それが景時(かげとき)の諫状が意味するところだ。
鎌倉期に書かれた史書『吾妻鏡』は、この書状を紹介したあと、「義経の独断とわがまま勝手に恨みに思っていたのは景時だけではない」と書き添えている。
平和の世である現代の企業でいえば、頼朝が社長で、軍事を担当する義経はさしずめ営業担当の専務にたとえられようか。
専務は、子飼いの営業二部の部隊を使ってエリート営業一部が苦戦する商戦で見事にライバル社を退けた。勢いに乗る専務は人事権を行使し、社長の座を狙いはじめる。面子をつぶされた営業一部は専務告発に走る。
頼朝は早速、西国に早馬を出し、「義経の命に従う必要はない」と厳しく下知した。(この項、次回へ続く)