軍、政のトップである蒋介石を西安のクーデターで人質に取られて、国民政府は混乱の極みにあった。蒋介石の生死についての情報不足もあるが、事態はさらに複雑である。
ようやく統一中国政府の形を整えたとはいえ、実態は各地の軍閥政権の集合体である。トップを東北軍閥の張学良と西北軍閥の楊虎城が捉えたのならば、一気に反乱勢力を壊滅させたものが、統一政府の主導権を握ることができる、との思惑が渦巻いていた。
混乱の中で蒋介石が死亡するなら、まさにトップの地位を手にすることになる。蒋介石を危機にさらす軍事行動にも「反乱の鎮圧」という大義が立つ。
事件発生当日、南京で異変を知った国民党ナンバー2の何応欽は、臨時常務委員会を開催し、「反乱軍討伐」を決定し洛陽から軍を動かしている。さらに西安の空爆の準備を進める。
一方、蒋介石夫人の宋美齢は空爆の動きに慌てふためき、夫の救出を再優先にすべきだと、党、政府の幹部の説得に奔走していた。
事件翌日の12月13日、「交渉特使を西安に送るべきだ」と主張する宋美齢と会った何応欽は厳しい表情で言い放つ。
「すでに討伐命令は下した。女がでしゃばることではない」
何応欽説得に失敗した宋美齢は、党、政府に無断で西安の張学良に緊急電を打つ。「今日、南京政府顧問のW・H・ドナルドが西安に飛ぶ。至急、返電を請う」。政府、党の手続きを踏まない独断であった。
ドナルドとは、ニューヨーク・ヘラルド紙の元中国特派員のオーストラリア人で、中国革命の取材を通じて孫文の顧問となり、蒋介石夫妻もそれを引き継ぎ、国際関係のパイプとして頼りにしていた。また、ドナルドは張学良のアヘン中毒治療に関わったことがあり、張とは周知の仲である。
張学良から「特使派遣を歓迎する」との返事が届く。洛陽経由で西安に入ったドナルドは、蒋介石の無事を確認し宋美齢に伝えた。
西安上空には三十数機の政府軍機が脅しの示威飛行を繰り返している。国民政府軍の総攻撃が迫る中、張学良にも蒋介石説得に時間をかけられない事情がある。
夫を気遣う宋美齢の私情による行動が、事態打開の糸口を開いた。
「何応欽の軍事討伐方針か、私の独断による対話解決方針か、どちらが正しいかは将来の議論に任せよう」。宋美齢はのちに当時の判断を回想している。
さて囚われの身の夫、蒋介石は、人民裁判の恐怖におののきながらも、張学良が要求する抗日への政策転換を、強硬にはねつけ続けていた。 (この項、次回に続く)
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※ 参考文献
『西安事変前後―「塞上行」1936年中国』范長江著 松枝茂夫、岸田五郎訳 筑摩書房
『蒋介石』保阪正康著 文春新書
『張学良はなぜ西安事変に走ったか―東アジアを揺るがした二週間』岸田五郎著 中公新書
『周恩来秘録(上下)党機密文書は語る』高文謙著 上村幸治訳 文春文庫