国民政府のトップである蒋介石を拘束、監禁したものの、現地の西安で事変の主役の張学良は焦りの色を濃くしていた。
張学良は蒋介石の自由を奪いさえすれば、蒋介石の基本路線を抗日優先へと説得するのは容易いと考えていた節がある。
決起した直後、張は、自らの行動を「兵諫(へいかん)」と名づけて、クーデター色を消そうとした。「兵諫」とは、軍事的圧力を使って王の無軌道を諌めるという中国古代の春秋戦国時代の故事にならった命名で、王(蒋介石)に取って代わる意思はないことを強調したのだ。
「国家の危機に際して、止むに止まれぬ心情から起こした行動である。(蒋介石)委員長が、抗日策に転換しさえすれば、委員長をトップとして敬いその指導を受ける」と全国に打電して正当性を強調し続けた。
監禁されたとはいえ、蒋介石にしてみれば、張学良の言葉の端々から、当面の命の保証は担保できたと読んだ。
「路線の変更は、ここでは決められぬ。幹部会議の決定が必要である。私を南京に戻せ」
頑なな蒋介石の態度に張学良は打つ手を失った。
国民政府の幹部から親日派を排除して組み換え、路線変更の意思を委員長自身に合意文書に署名させて、発表すれば済む、と考えていた当初の計画は、署名を拒む蒋委員長の抵抗に遭い困難となった。
張学良は、「文書への署名はなくてもいい。路線変更への応諾の言質だけでも欲しい」と迫る。手の内をさらして妥協を重ねる張学良の姿勢に「命を奪うまでの覚悟はない」と確信を深めた蒋介石は、さらに強気に転じる。
手の内を見せてずるずると妥協する交渉では勝てる道理はないのだ。
張学良にとって頼みの綱は、早々と西安に乗り込んで瀕死の共産党の存続をかけて情況をさぐる周恩来の政治交渉力と、南京で夫の生命の保証を第一に平和解決を目指す宋美齢の動きにあった。
国民政府顧問として西安に乗り込んだドナルドからの報告を受けた宋美齢は、浙江財閥を率いる兄の宋子文を交渉に送り込む。
事変解決は、蒋介石と部下の張学良の確執を離れ、国民政府の財政的後ろ盾である浙江財閥と中国共産党との交渉に主導権が移っていく。 (この項、次回に続く)
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※ 参考文献
『西安事変前後―「塞上行」1936年中国』范長江著 松枝茂夫、岸田五郎訳 筑摩書房
『蒋介石』保阪正康著 文春新書
『張学良はなぜ西安事変に走ったか―東アジアを揺るがした二週間』岸田五郎著 中公新書