日露戦争の戦費調達のための「第1回6%ポンド建て日本公債」の発行条件は固まった。1904年5月7日、高橋是清が銀行団との間で仮契約を結んだ。
発行総額は1000万ポンド(1億円)で、米国内で半額を募集。償還期限は7年。引き受け幹事行は、ロンドンではパーズ銀行、香港上海銀行と横浜正金銀行となる。アメリカ分はユダヤ人のヤコブ・シフが率いるクーン・ローブ金融グループが引き受けた。
4日後にロンドンで申し込みが始まると、各銀行には長蛇の列ができた。申し込みは翌日締め切られ、ロンドンでの応募倍率は26倍、ニューヨークでも5倍に達した。
高橋も街へ出て盛況ぶりを確認している。
この時点で日本政府の正貨(金)の準備高は8000万円まで減少していたから、公債発行成功による補充正貨9000万円によって、日本は、金本位制度放棄の危機を免れることになる。
「本国からは、『開戦以来、正貨の流出は予想以上である。このままでは兌換の維持は困難だ』と督促が相次いだが、ひとたび募集初日の模様が世界に発信されるや正貨の流出は止まった」と高橋は自伝で振り返っている。
公債発行成功の要因は複雑に絡みあっている。表面的には、発行価格が安く、担保の関税収入が支払い利息の三倍もある安心感もあっただろう。
それに加えて、鴨緑江での日本陸軍戦勝のタイミングをとらえた発行で、同盟国日本の勝利に対する英国大衆の支持もある。
さらに国内金融から国債金融に打って出ようという米国資本家の狙いが合致した。
公債募集を使命にロンドン入りした高橋是清にしてみれば、軍の健闘も米国資本家の思惑も自らの力の及ばぬ部分である。しかし、それらの情報を確実につかみ、公債募集にどう冷静に生かすかはできた。やってのけたのが高橋是清の冷静さであった。
しかし、第1回公債募集成功は始まりに過ぎない。高橋は、政府からの帰朝命令を拒絶しロンドンにとどまり、以後、終戦まで五回の公債発行に携わり、最初の苦労で培った人脈を生かし利率の引き下げに奔走する。
高橋はその後、六度の大蔵大臣、二度の首相を務めた。1927年の金融大恐慌も蔵相として乗り切ったが、軍事予算の縮小策が軍部の恨みを買い、2・26事件(1936年)で若手将校の凶弾に倒れる。
何よりも「使命」を重んじる明治気質の男であった。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※ 参考文献
『高橋是清自伝(上、下)』 高橋是清著 上塚司編 中公文庫
『日露戦争、資金調達の戦い―高橋是清と欧米バンカーたち』 板谷敏彦著 新潮選書
『日露戦争史』横手慎二著 中公新書