〈人の「器量」というのは、器(うつわ)のことである〉と、荻生徂徠は説く。才能を盛る容器、道具である。
人はそれぞれに才能や知恵が異なっている。それを癖(くせ)という。
「癖のある人が、すべて優秀な人であるというわけではないが、ひと癖ある者に優れた人が多いものである」と持論を展開する徂徠は、こんな例え話で説明している。
「槍であれば、突くはたらきばかりで切るはたらきはない。刀であれば、切るはたらきばかりで、突くににはあまり適しない。すべて刃物は鞘に入れておかなければ、大きな怪我をすることがあるが、そういう危険性があるところが、すなわち、その物の〈癖〉である」
そして言う。「鞘がなくても怪我をしない刀とか、先端が当たっても疵をつけない錐とかは、みな〈癖〉のないもので、その代わりに何の役にも立たない」。お分かりだろうか。
時代が安定してくると、上に立つものが小心になって、こうした癖のある者を使いたがらない。つまり本来の人の器量を見いだせず、無難な万能タイプの人材を探そうとする。
「そんな万能の人など古来から存在しないから、結局〈人材がいない〉と嘆く羽目に陥る」
一見、万能に見えるタイプというのは、「底の浅い人物で誰に対してもよく調子を合わせ、何の役にも立たない者だと知れ」と徂徠は厳しい。
器量と癖の活かし方については、昭和を代表する寺社大工の棟梁、西岡常一(にしおか・つねかず)も同じことを言う。
「木にはそれぞれ癖があり、一本一本違います。産地によって、また同じ山でも斜面によって変わります。まっすぐ伸びる木もあれば、ねじれる木もある。材質も、堅い、粘りがあると様々です。木も人間と同じ生き物です。いまの時代、何でも規格を決めて、それに合わせようとする。合わないものは切り捨ててしまう。人間の扱いも同じだと思います。法隆寺が千年の歴史を保っているのも、みな癖木を上手に使って建築しているのです」
木の話をしていて、つまるところ人材の話である。木の癖を見抜いてうまく使い、癖のある職人を束ねて千年の建築物を組み立てる。
癖を避けず恐れず「適材適所」で人材を自在に活用する。
会社運営の棟梁である経営者が心がけるべき、人材登用の原点がここにある。