大目的を見失わない
戦時中、進駐したインドネシアの軍政で現地住民の絶大な信頼を得た陸軍中将(のちに大将)の今村均だが、もちろん部下からも慕われた。何よりも精神主義がまかり通る旧陸軍にあって、彼は、兵の無駄死にの愚を戒め、合理的で合目的的な作戦指揮を貫いたからだ。
52歳で中将となった今村が初めて実戦の指揮を執ったのは、日中戦争の南中国戦線、南寧(なんねい)での戦いだった。1939年(昭和14年)11月、援蒋ルートを断つため第五師団の将兵2万5千を率いて南寧を攻略、占拠したが、体勢を立て直した蒋介石軍が攻勢に転じる。日本軍は10万の大軍で包囲され苦戦を強いられた。
指揮下の野砲兵連隊が総攻撃を受けて砲3門を破壊されて放棄し退却した。退却後、連隊長は、「砲兵にとって軍旗に等しい火砲を敵の手に渡すのはこの上ない恥辱です。名誉回復のために生存兵60数名を率いて敵中に突撃し分捕り返したい」と今村に伝えた。聞いた今村は、「そんなことは許さない」と言下に却下した。
「君の気持ちはわかる。思いつめた決意もありがたいと思う」とした上で、こう諭す。「奮戦の上で砲3門を放棄したことがそんなにも大きな不名誉か。もし私が火砲の奪回を認め、君が軍刀をひらめかして突撃したら、他の部隊も続くだろう。しかし軍上部の指示は、決戦は全軍で敵を補足することにある。第五師団だけで動くことは許されない。決戦は近い。砲3門を欠いたとはいえ、残る45門は決戦において重要な戦力だ。その時に備えて今から地形をよく偵察して研究を重ねておけ」
当時の日本軍の常識からすれば、陛下から賜った武器の奪還のための命を捨てての突撃は美談となるかもしれないが、無駄死にを放置して勝利はない、というのが今村の指揮官としての哲学だった。美談の誘惑よりも、「勝利のために最善を尽くす」という、軍事行動の大目的を見失わない指揮官の姿勢に、中隊長以下砲兵の士気が高まらないわけがない。果たしてひと月後の決戦で、砲兵連隊は大きな威力を発揮し中国軍を撃退した。
ラバウルへ転戦
前回書いたインドネシア軍政の柔軟さも、英米仏蘭のアジアでの包囲網を突破するためには、現地人の心を取り込み味方につけるという今村流の「大目的を見失わない」発想のなせる技だった。しかし、軍上層部には軟弱に映ったのだろう。今村の軍政は一年で終わる。彼は激戦が予想されるソロモン諸島方面を担当する第八方面軍の司令官としてラバウルに転任する。彼が去ったインドネシアでは現地人を無視した過酷な軍政が敷かれた。
転身先でも今村は、ラバウル基地のあるニューブリテン島が決戦場になると考えて現地での食料増産に乗り出す。決戦に向けてまずは兵を養うことを優先させた。ガダルカナル島はいうに及ばず、南方各地の陸軍部隊の兵たちは、補給線がきれるやどこでも餓死線上をさまようことになるが、ラバウルでは、「できないものは赤ん坊だけ」と言われるほど、何でも作ったという。敗戦1年前に勇名を馳せたラバウル航空隊がトラック島に引き上げたあとは、陸軍部隊は丸裸になったが、今村はラバウル基地を徹底的に要塞化し、米軍に上陸を断念させ、敗戦のあと5万の将兵はほぼ無傷で内地に帰還を果たしている。
服役は部下とともに
敗戦後、今村はオーストラリア軍事法廷で受けた10年の禁固刑に服するため、戦犯として東京の巣鴨プリズンに送られる。しかし、彼は、かつての部下たちがB、C級戦犯としてラバウル沖のマヌス島で劣悪な環境下で収監されていることを知り、G H Q総司令官のマッカーサーに願い出る、「部下たちを見捨てて自分だけが東京でのうのうと服役するわけにはいかない。島で服役したい」。
彼は自らの戦犯裁判で、「我が将兵に罪はない。将兵を罰せず、我を罰せよ」と訴えている。それは指揮官である今村の矜持であった。
島にいる部下たちは、戻ってきた司令官の姿に「まさか」と驚き、そして号泣したという。マッカーサーは、「日本に来て初めて真の武士道に触れた思いだった」と後に書き残している。
部下に愛され、占領地の住民からも尊敬され、敵将をも感服させた今村が、東京の自宅に戻ったのは、昭和29年(1934年)秋の終わりだった。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『今村均回顧録』今井均著 芙蓉書房
『不敗の名将 今村均の生き方』日下公人著 祥伝社新書
『昭和の名将と愚将』半藤一利、保阪正康編 文春新書