下関における日清両国の講和交渉がはじまって五日目の3月24日
慌てたのが日本側である。全権の陸奥宗光(外相)は、ただちに、
「朕(ちん)、深くこれを憾み(うらみ)とす。
日清戦争の行方を注目していた欧米各国は、ただでさえ、文明(
皮肉にも、天皇が示した「我が意」にこたえたのは李であった。
「清憎し」で固まっていた日本国内の世論も旋回する。
李鴻章が銃撃される日までの交渉では、清が優先的に求めていた「
頬に刺さった弾丸の摘出をしないまま、
高額の軍事賠償金の支払い、領土割譲要求、通商上の特権の付与、
「過酷すぎる」と抵抗する李鴻章は、「講和条約中に、
のらりくらりと時間を稼ぐ李は、この間、
4月15日、李はついに折れた。ほぼ日本の要求通り、当時のわが国の国家予算の3倍にあたる2億両(
しかし、それが日本を難局に巻き込んでいく。
遼東半島割譲に異議を唱える独仏ロによる「三国干渉」である。(次回に続く)
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
参考文献
『李鴻章―東アジアの近代』岡本隆司著 岩波新書
『日清戦争』大谷正著 中公新書
『新訂 蹇蹇録』陸奥宗光著 岩波文庫
『氷川清話』勝海舟著 江藤淳・松浦玲編 講談社学術文庫
『日本の歴史22 大日本帝国の試煉』隅谷三喜男著 中公文庫