明智光秀が「愛宕百韻」で垣間見せた天下取りの野望を固めてから、本能寺に向かうまでの心理を推測すると、「この時をおいて機会はない」という切迫感であったろう。
主君を殺しての天下公布は正統性が得られまい、というのは後世の倫理観であって、戦国の世においては、主君殺しはおろか、親殺しさえも権力奪取のためには異例なことではない。
武田信玄でさえ、権力闘争の過程で父・信虎を駿河に追放している。
さて土岐氏再興の野望に燃える光秀は、諸国遍歴の末に信長に仕官し織田四天王と呼ばれるまでの重臣に出世した。
その信長の下で、比叡山焼き討ちに参戦し、また石山本願寺との確執と各地の一向宗を力でねじ伏せようとする独裁者信長の強引さを目の当たりにして不信感を募らせたとしても不思議ではない。
歌道、有職故実にも通じた一流の知識人でもあった光秀は、信長の強烈な個性の中に「義」の不在を見て取った。「いずれ自分が天下を」の思いは早い時期から芽生えていただろう。
機会さえあればという野心は、この当時、秀吉、家康とても同じであった。ただ「時は今」と感じた光秀は「知」が先走るタイプの武将であった。「謀」に欠けた。そこが秀吉、家康との差である。
のちに関ヶ原で家康に敗れる石田三成と似ている。知に引きずられて現実の一手先を読めない。
さて、未明に本能寺の変が起きた天正十年六月二日、信長は本能寺に家康を招いて茶会を催すことになっていた。
その家康は近従のもの数十人だけを引き連れて遊楽に訪れていた堺から京に向かう。丸腰の家康を接待するために信長も小姓などわずかの側近を随伴して入京していた。
信長の主要軍団のうち、秀吉は中国戦線で毛利勢と対峙している。柴田勝家は北陸で上杉景勝と向き合い、丹羽長秀は四国の長宗我部元親攻め準備のため大坂にいる。滝川一益も関東工作で前橋にいた。
護衛兵力もなく行動したのは、油断と言えば信長の油断だが、結果として信長周辺には武力の空白が生じていた。
「敵の敵は味方」。信長さえ討ち取れば、毛利、上杉、長宗我部も光秀方につく。そうならなくても織田の諸将は、足止めを余儀なくされる。
その間に朝廷を味方につければ、天下公布は成功する――。
亀山を発ち、率兵して上洛しつつあった光秀、ついに訪れた僥倖に心うち震えたに違いない。
(この項、次回に続く)