漢の高祖劉邦の戒め
大唐帝国の事実上の創業者、第二代皇帝である太宗(たいそう)と諌臣(かんしん=主君の非行を強くいさめる臣下)たちとの対話を記録して後の代の帝王心得として残すことを目的とした『貞観政要(じょうがんせいよう)』は十巻四十篇に及ぶが、その最終章は「慎終(しんじゅう)」篇で締めくくられている。
終わりを慎む、つまり有終の美である。足かけ23年間に及んだ太宗の治世は、国境をめぐる異民族との外交も安定し、内政も優秀な側近たちを登用し諸制度を確立し成果を上げた時代である。しかし、統治の盛期、晩年を迎えても、彼は「私の政治は間違っていないか、これでいいのか」と自問し、側近たちに繰り返し意見を求めている。創業者としての不安である。
あるとき、太宗はその不安を側近たちに吐露している。
「昔から、立派なことを成し遂げた君主たちも、途中からおかしくなり、成果を守り続けることができなくなるもののようだ」として、前漢王朝の初代高祖(劉邦)の例をあげている。
田舎の宿場町の親分に過ぎなかった劉邦は、民の声に寄り添って、始皇帝亡き後、混乱する秦を打ち破り漢王朝を開き帝王の地位に就いた。名君の誉れは高い。「しかし、彼の在位があと十数年続いたら勝手な振る舞いで国を滅ぼしていたのではないか」。わが身に置き換えて恐れを隠さない。
劉邦は、皇太子だった嫡男(のちの恵帝=けいてい)が温厚で人望もあったのに、愛人との間の子を可愛がり、皇太子を廃嫡しようと試み混乱を招いている。さらに漢の建国に功労のあった蕭何(しょうか)を讒言(ざんげん)によって獄につなぎ、また韓信(かんしん)を側近から追い払っている。そのことによって内乱も招いた。「私はそういう愚(ぐ)を犯していないか?」
先達の失敗に学ぶ
普通なら、偉大な事業を起こした者は自信家であるから、こう考える。
〈私は決して組織運営の失敗はしない。それよりさらに事業を拡大、成功するためのコツを先達の言動から探そう〉
しかし、太宗は違った。秦の始皇帝は二代目に王朝を引き継げず、短期の政権に終わった。直前王朝の隋の二代目・煬帝は驕り高ぶって民心の離反を招き、これまた、統一国家を継承させることができなかった。太宗はこれら歴代王朝の失敗例を「反面教師」として教訓を得ようとする。
失敗例から学ぶことは、自分にも同様の欠点要素があるから避けたくなる。太宗は、後継者選び、側近の処遇についての劉邦の失策を見て、自ら思い当たることがあり「はっ」とすることがあったのだろう。だからこそ失敗例の学習は有用なのだ。そのしくじりを学べば、同じ轍(てつ)を踏むことを回避できる。
先達の失敗例こそ、自らの愚を忠実に映し反省の機会を与える鏡なのだ。
常に危急の時を思う
一方で、太宗は自分の治世の安定については自信を持っている。あるとき、高官たちの前でこう言った。
「昔から帝王たちは常によく天下を治めているとは限らない。国内が平和であっても必ず外国からの侵入があるものだ。ところが今はどうだ。遠くの異民族が次々とわが国に服属し、五穀は豊穣で、盗賊も現れない。内外ともに静かに治まっている。そなたたち全員が私をよく補佐しているからだ」
自信過剰気味の言葉を聞いて、忠告役の魏徴(ぎ・ちょう)が進み出た。
「今は陛下が聡明ですから、よく国を治めています。有能な臣下がいたとしても、君主が政治について何も考えないのであれば、国がここまで栄えることはなかったでしょう」。ここまでは、逆説を使ったおべっかの挨拶で、太宗が気をよくしたところで、さすがは忠告大臣の魏徴、釘を刺すことを忘れない。
「しかし」と真顔で切り出す。「今、天下は太平だとはいっても、私たちはそれだけで喜んではいられません。ただただ陛下には、安泰であっても国が危うくなることを考え、最後まで怠らず皇帝としての責務を果たしてほしいと願うものです」
冒頭の劉邦論議があったのは、この翌年のことである。太宗は、問わず語りでこう締めくくっている。
「漢の高祖(劉邦)は、晩年になってから、わが子や功臣たちに対して、道理にはずれた振る舞いに及ぶようになっていた、これがもう少し続けば、やがて国を滅ぼす破目になったことは明らかではないか。私は天下が平和に治まっているからといって、いささかも気をゆるめず、常に滅亡にいたらぬよう気を引き締めて、終わりを全うしたいと考えている」
〈リーダーは「常在戦場」、驕ることなく謙虚に有終の美を飾れ〉
魏徴の忠告はしっかりと受け止められていた。(『貞観政要』の教訓は今回で終わります)
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『貞観政要 全訳注』呉兢著 石見清裕訳注 講談社学術文庫
『貞観政要』呉兢著 守屋洋訳 ちくま学芸文庫