1994年、債務超過・倒産寸前に陥り、主力銀行からも見放された子会社の日本レーザーに、親会社の命を受け代表取締役社長に就任。“人を大切にしながら利益を上げる”経営改革を進め、就任初年度から黒字化、以来25期連続黒字、12年以上離職率ほぼゼロへ導いた近藤宣之氏。氏が関わった数々の経営再建の中で、「人を大切にする経営」に舵を切るきっかけとなった一つの「地獄」の教訓とは。
「経営の地獄」の経験にある「人を大切にする経営」の原点
私にとっての「人を大切にする経営の原点は何か?」は、とても1つでは答えられませんが、なぜそう考えるようになったか、についてはお話できることがあります。
私は、日本電子というグループの中で5回、再建に関わりました。経営再建にあたって、散々人を犠牲にしてきました。
最初は労働組合の委員長として。取締役として、現地法人の責任者として、営業担当役員として…最後に、社長として再建を行ったのが日本レーザーです。
再建という「経営の地獄」を何度も見てきた経験から、やっぱり人を大切にして再建しなければ、企業には存在意義がないのではないかと想うようになったのです。
経営破綻は社員の「努力の外側」で起こった
日本電子が上場した際、一時は「第2のホンダかソニーか」と言われるほどでした。昭和37年の話ですが、上場してから13年で50円の株価がなんと2,700円まで上がったりもしたんです。
そのまま調子でよく行ければ良かったのですが、やはり上場の罠…常に右肩上がりの事業計画を描き、高成長、高収益、高配当、高株価、高配当をずっと続けていたこともあり、46年のニクソンショック、48年のドルショックの煽りを受け、企業は破綻してしまいました。
最終的には、会社更生法も難しい。銀行としては再建してやる代わりに、まずは人間を1/3に減らせということになりました。
当時28歳。2つの労働組合が拮抗している板挟みの中にいましたが、私は労働問題が最大の課題で、良い労使関係を作れば会社は良くなると信じてやっていました。
1年間かけて、血を流してまで会社を守る覚悟で闘い、ようやく決着がついた矢先に会社が破綻をするという、まさに寝耳に水の出来事でした。
会社を再生するために、人を減らす。まだ若かった自分がこの担当になった時、このミッションは「会社のため」にやることだから、もちろん苦しいけれど必要なことなのだと信じていました。
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