
理念や思想は、現実を生き抜くためにある
井上裕『稲盛和夫と二宮尊徳』を読んで、つくづく感じたことがある。尊徳と稲盛は、大きな理念を掲げ、ぶれることがない。しかし経営者は夢想家であってはならない。その一方で、実際の世の中とそこに生きる人々を相手にする以上、思考と行動はあくまでも現実的でなければならない。実行できなければ意味がないからだ。
『稲盛和夫と二宮尊徳』にあるエピソードが面白い。他人から頼み事をされたとき、尊徳はほとんどの場合まずは断った。細心の注意を払い、相手が信用出来る人物か、熱意が本物か、自分のやり方を理解し共に苦労できる相手なのか、実現可能性を見定めからようやく引き受けた。
稲盛もまた徹底した現実主義者だった。成算が無ければ動かない。例えば、JALの再生。不採算路線からの撤退は当然にしても、国際線の営業を続けることが稲盛にとって再建を引き受ける大前提。国際線という営業の現場がなくなれば、元も子もない。 国際線撤退を回避できたことで、「これならいける。あとは京セラフィロソフィーとアメーバ経営を徹底的にジャルに浸透させる。それだけだ」――一気呵成に実行する。
小さな実践から大きな思想へ
尊徳にしても、稲盛にしても、思想は頭の中だけで考えて出来上がったものではなかった。経営を実行する中で、自らの直接経験を通じて練り上げたものだった。評論家にありがちなマクロの俯瞰ではなく、ミクロの小さな行動を重ねる中で大きな思想を獲得した。
尊徳はわずかばかりの菜種を購入し、荒地になっていた生家の土地に蒔いた。翌年の夏には20倍の菜種を取ることができた。それを続ければ何十倍何百倍の収穫を得ることができる。一見取るに足りない小さなことでも積み重ねて行けば大きな結果を生む。
仕法(再生プロジェクト)にしても、対象となる地域を定めると、最初は特定の一か所の再建に集中する。そこでの復興に成功すると、次の村の仕法の復興資金に当てる。これを繰り返すことによって、最終的には藩領全体を復興させる。「小事を務めて怠らざれば、すなわち大事必ず為る」――尊徳の「積小為大」の思想は、長期視点で複利の力を梃子に好循環を生み出すという経済活動の根本原則を見事に衝いている。
「普通の人」稲盛和夫の思想と行動
稲盛も同じだ。身近にあるところから事を起こし、まずは目に見える成果を出す。その繰り返しで好循環を生み出す。会社は何よりもまずそこで働く従業員のためにある。全従業員の物心両面での幸せを追求することに経営の目的を置く。そうした思いを持って経営するからこそ、従業員も共鳴し、賛同し、惜しみない協力をしてくれる。いきなり国家のため、社会のためといった壮大な理念を掲げると、従業員にしてみれば他人事になってしまう。
当の稲盛にしても、はじめから全能の特別な人間であったわけではない。それなりに臆病で、不安や心配に悩む「普通の人」だった。松風工業に職を得るものの、中小企業の現実は厳しい。「俺の人生は一体どうなるだろう」――不安を忘れるには、一心不乱の仕事への集中が必要だった。漠然とした恐怖から逃れるために、ニューセラミックの研究に没頭した。ここから稲盛の「ど真剣」の原理が生まれた。尊徳直系の直接経験に立脚した行動主義が色濃く出ているエピソードだ。
こうした中で、稲盛は尊徳に共鳴するに至った。いくつもの荒廃した農村に入っては、尊徳は鍬一本鋤一本で朝から夕方まで一心不乱に仕事をした。心を美しくするには、一心不乱に仕事をする。どうもそれしかない――。
思想の力の本質
「幸せだから笑うのではない。笑うから幸せなのだ」という言葉がある。稲盛は確かに偉人だが、はじめから高潔な人格が備わっていたわけではない。普通の人間だからこそ、一心不乱に仕事に打ち込まなければならなかった。一心不乱に仕事をしたからこそ、思想と人格が磨かれた。この因果関係が本当のところだろう。この辺が、僕を含めて多くの普通の人を惹きつけてやまない稲盛の思想の力なのだと思う。
































