世継ぎ問題で翻弄される小早川秀秋
実子に恵まれなかった豊臣秀吉が、後継づくりを急ぐために準備したのは、血のつながりのある一門の子弟たちだった。一人は、姉の長男である秀次(ひでつぐ。その数奇な運命は次回に書く)で、主君の織田家から養子に迎えた秀勝(ひでかつ)も後継者の一人と目された。そして今回焦点を当てたいのは、正室ねね(北政所、高台院)の甥にあたる秀俊(ひでとし)だ。のちの小早川秀秋で、秀吉亡き後の関ヶ原合戦で、東軍(徳川家康方)に寝返り東軍勝利の決め手となったエピソードはよく知られている。(混乱を避けるためにこの後は秀秋と表記する)
秀秋が生まれたのは1582年(天正10年)で、四歳で秀吉の養子となった。当時、秀吉は、近江長浜の城主で、幼い秀秋は、ねねの手で実の子のように育てられた。秀吉の天下取り後、1586年の天皇聚楽第行幸前後の記録から、秀秋はすでに秀吉の後継者として遇されている。ところが3年後、秀吉側室の淀君に待望の男子(鶴松)が誕生したことで秀秋の運命は変転する。
実子誕生に舞い上がる秀吉
実子が誕生したこの辺りから秀吉の後継戦略は迷走をはじめる。創業家オーナーとして実子での事業継承は、何よりも望ましい。一門からの養子より、また織田家から権威を受け継ぐための養子縁組より、実子相続に勝るものはない。しかも、淀君は信長の妹、お市の方の娘として織田家の権威も引き継いでいる。その子とあれば、申し分なし。秀吉は舞い上がってしまった。
こうなると信長の五男で後継資格もある秀勝も用済みだ。秀勝は、京都の西の守りの要である丹波亀山の城主だったが、秀吉は知行に不満を表明したのを好機とみて、領地を没収する。その後任として秀秋を送り込む。秀秋を後継候補から一大名に降格させ、鶴松後継体制を整えたつもりだった。ところがその鶴松は、二年後に夭逝してしまう。希望を失った秀吉は、理屈の立たない朝鮮遠征に没頭する。
そして四年後、淀君は再度身籠り、秀頼(ひでより)が誕生する。老いた秀吉の秀頼への偏愛はとどまるところを知らない。秀頼以外の選択肢は完全に消えた。
秀秋、毛利一門の小早川家へ養子に
秀頼が誕生すると、秀秋は豊臣家の養子からも外される。1594年(文禄3年)、秀秋は、筑前名島(福岡市)の城主だった名将・小早川隆景(毛利元就の三男)の養子となった。豊臣、毛利両家の思惑がらみの政略縁組に使われた。
のちに関ヶ原の合戦(1600年)で秀秋は、秀頼を推戴して西軍を率いる石田三成に最終局面で反旗を翻す。それには伏線があった。秀吉の朝鮮出兵の後段、慶長の役に出陣したが、軍奉行役の三成が秀秋の戦場での不功績を秀吉に進言し、秀秋は越前北ノ庄に減封改易された。その恨みを忘れてはいなかった。また、淀君-秀頼と、一度は後継者として自分を育ててくれた北政所への複雑な思いもあった。腹芸が得意な徳川家康は、その人情の機微を巧みについて、寝返りを執拗に働きかけていた。
最終的に豊臣家は、1615年の大坂夏の陣で家康に敗れて姿を消すが、豊臣恩顧の武将たちの大半は秀頼を支えなかった。すべては、揺れに揺れた秀吉の後継確定戦略に原因があった。体制固めに最も必要なのは安定した権力継承なのだ。
実子に引き継がせるのか、身内から後継者を選ぶのか、他家から優秀な人材を養子に取るか、信頼できる番頭役に後を任せるのか、決定したら不測の事態がない限り、貫くべきだというのが教訓である。(この項、次回へ続く)
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考資料
『秀吉と豊臣一族研究の最前線』河内将芳編 日本史史料研究会監修 山川出版社
『日本の歴史12 天下一統』林屋辰三郎著 中公文庫
『日本の歴史 15 織豊政権と江戸幕府』池上裕子著 講談社学術文庫























