日露戦争(1904―1905年)の勝利を決定づけたのは、東郷平八郎(とうごう・へいはちろう)司令長官の率いる連合艦隊がロシア・バルチック 艦隊を打ちのめした日本海海戦だった。
東郷は戦勝後、「天佑と神助」を強調したが、勝利は神がかり的な偶然ではなく、冷静な判断による必然であった。
旅順港を奪われ、奉天会戦に敗れたロシアは、起死回生を賭けてバルト海を拠点とするバルチック艦隊を沿海州のウラジオストクに回航し、日本海の制海権確保を目指した。
そうなれば、弾薬が尽き、補給線が伸びきった日本陸軍は背後のシーレーンを奪われて孤立する危機にあった。
東郷は戦艦「三笠」を旗艦とする連合艦隊を対馬海峡に臨む朝鮮半島の鎮海(ちんかい)湾を拠点に集中配置して待ち受けた。
「敵は必ずここを通る」
そう信じて待つ東郷だったが、決戦が迫った1905年5月、連合艦隊内に動揺が走る。
アフリカ南端の喜望峰回りで地球を半周してウラジオストクに向かうロシア艦隊が、5月14日に仏領インドシナのバン・フォン湾を発ったあと、姿を消したのだ。
航海速度を考えると5月20日すぎには対馬海峡に姿を見せるはずが現れない。
「おかしい。バルチック艦隊は太平洋を迂回して津軽海峡を抜けるルートを選んだのではないか」という疑心暗鬼が連合艦隊の参謀たちの頭にもたげはじめた。
津軽海峡に敵が姿を現してから駆けつけたのでは取り逃がす。津軽海峡で待っても、敵艦隊が対馬海峡を通過すれば捕捉しきれない。
東郷腹心の首席参謀、秋山真之(あきやま・さねゆき)も、悩み抜いて艦隊の北進を献策するに至る。
5月25日。「三笠」艦上で開かれた軍議では「北進」策が大勢を占めた。
この時点で、東郷が決断をすれば津軽海峡に向かう手はずが、すでに「密封命令」として各戦隊に発出されていた。
議論を聞いた東郷は自らの意見を示さず、長官室に籠った。敵が姿を見せないのは不審だが、さりとて太平洋に回った情報もない。
疑心がもたげると、新たな情報もないまま方針を変更しがちなのが人間。それが思い切った決断だと酔ったように思いこんでしまう。
遅れて「三笠」に到着した第二戦隊司令官の島村速雄(しまむら・はやお)少将は長官室に乗り込んで具申する。
「いましばらく情報が入るまで留まったほうがよろしいかと」。
「もう一日待とう」と東郷。この一日が運命の女神を呼び込むことに なる。
(この項目、次週に続く)