新幹線建設に邁進した十河信二(そごう・しんじ)と島秀雄(しま・ひでお)が国鉄を去った昭和38年5月の段階で、前年に始まった一部区間での試運転も軌道に乗り、計画は9分9厘完成の域に達していた。
残る問題は、いかに不足予算を確保し、全線軌道敷設を終えるかにあった。
十河は戦前、鉄道院に奉職して以来20年間を会計畑で過ごした。小手先の「圧縮予算」のウソで乗り切れないことは知っていた。
とすると、「まやかしの予算」で強引に予算を通し、計画が引き返せなくなった時点で予算不足を暴露し、自らの首と引き換えに予算を確保し完成させる。当初からの大胆な計画だったとしか思えない。
十河は、鉄道事業の師・後藤新平が戦前に取り組んだ鉄道広軌改良計画について、「後藤(鉄道院)総裁は真先にとりあげてやろうとしたのですが、軍や政党の反撃を受けて挫折しました」と書き残している。
戦後の十河にとっての抵抗勢力は、政治家と組織内外にうごめく官僚たちだった。
その抵抗を排除して新幹線構想の実現を最優先に、身を捨てる覚悟でついた「大ウソ」だったのではあるまいか。
いかなる組織にも、「我田引鉄」的発想で動く“政治家”と、「事なかれ・前例主義」の“官僚”はいる。その中で事を進めるには覚悟と知恵がいる。
政治家は大風呂敷的ロマンに弱い。官僚たちは、自ら責任を取らずにすめば抵抗せずについてくる。そのことを巧みに利用した。
戦前を満鉄で過ごしたことのある十河は「有法子(ユーファーズ)」という中国語を座右の銘としていた。
「まだ方法がある、もっと努力を」という不屈の精神を意味する。
昭和39年10月1日。新幹線一番列車の出発式に、十河と島は招かれなかった。
テープカットしたのは、有能な商社マンとして知られ、十河の後任総裁についた石田禮助(いしだ・れいすけ)。その石田でさえ、十河から引き継いだ新幹線を「道楽息子」と呼び、開業後の採算性と安全性に懸念を隠さなかった。
しかし今秋に開業50周年を迎える東海道新幹線はドル箱路線として走り続け、ただの一度も人命にかかわる運行事故を起こさず、世界の高速鉄道の模範として注目を集めている。
今日も東京駅新幹線18,19番線ホームの端で、発車、到着する新幹線を見守る十河のレリーフには次の六文字が刻まれている。
「一花開天下春」(いっかひらいて てんかのはる)。
その業績には似合わないほど、だれも気づかぬ控えめな碑である。
しかし、新幹線が戦後日本に明るい春をもたらしたことを、知らないものはいない。