創業家と専門経営陣
戦前の財閥の出発点は多様である。しかし、江戸時代からの老舗の発展型であれ、国策と絡んで勃興した新興企業であれ、創業家が保全する資産を的確に投資して事業を膨らませていく構図は同じだ。
やがて、多くの財閥は創業家の資産を持ち株会社で集約管理、投資し、企業の運営は専門経営者たちに任せて利を得るようになる。
敗戦後の財閥解体によって創業家の持ち株会社による支配の構図は奪われて、グループ企業群に再編されていった。しかし、われわれに身近な戦後の新興の企業でも商店でも構図は同じである。代を継いで筆頭株主として経営権を掌握する創業家は、会社が大きくなるにつれて、専門経営者とのバランスの上に経営を行うことになる。
資本は自己増殖する。創業家が保有する資産は有利な投資先を探し、大きくなることを目指す。企業体が永続するか、没落するかは、投資対象の選定と投資のタイミングへの的確な判断が岐路となる。そのためのトップマネジメントが会社の盛衰を左右する。
豆粕取引での決断の差
前回書いた古河商事の豆粕取引での投資判断の誤りが、古河財閥のその後の低迷を決定づけた。何が起きたのか。
第一次大戦前後、化学肥料が行き渡らなかったことから、肥料としての豆粕の需要は旺盛だった。古河商事の大連支店が、大豆の主産地である満州で生産される大豆の絞りかすに目をつけたのはある意味で慧眼だった。大戦後の一時的な好況で大豆粕も価格が高騰する。現物取引で大きな利益を上げた大連支店の主任は、一気に儲けを上げようと、投機的な先物取引に手を出した。大戦後の1年半での豆粕取引高は5億円(現在価格で2兆5千億円)という巨額に上り、その半分を先物取引が占めるまでになる。一支店の一商品への投資としては異様な額だった。しかし、大戦終結で同社の主要取扱品である銅価格が暴落していたので、本社も好調な豆粕取引を歓迎した。いくら何でもリスクが大きいと社内から声が上がり、本社から支店に調査に赴いたが、ごまかされて実態をつかめなかった。
この豆粕相場商いには、三菱商事もダミー会社を通じて参戦していたが、危険に気づいてダミー会社を切り捨てて撤退した。やがて資金提供していた銀行も手を引き、古河商事は最終的に2,600万円(現在価格で約1,300億円)の巨額の損失を計上し、古河商事は破綻した。
組織と人材
商売だから、儲けが出る時があれば、損失を出すこともある。特にリスキィな先物取引では損切りのタイミングを間違えると会社が潰れることがあるという実例だ。三菱商事が損を切って逃げた後も、取引を続けて深手を負った古河は、現地の担当者の責任もさることながら、現地調査をしながら、それを放置した本社のトップマネジメントの脆弱さこそ問われるべきなのだ。
「わが社にはまだ、商社としてのノウハウがない」として同時期に貿易への進出を見送った住友経営陣の決断は正しかった。
いかに創業家オーナーが傑物であったとしても、組織のすみずみまで的確な経営指示を下すことはできまい。トップマネジメントを行き渡らせるためには、専門知識のある人材の採用、配置と、経営判断機構の整備が不可欠となる。
戦前の三大財閥と言われる三菱、三井、住友には強固なトップマネジメントのシステムがあった。
今に引き継がれる三社の特徴について、人は次のように言う。
「組織の三菱、人の三井、結束の住友」
しかしこれは三社の差をいうのではない。形こそちがえ、三社それぞれに強固なトップマネジメントシステムを備えていたことを言っている。組織を管理し慎重にリスクテーキングしながら企業活動を永続化させてきた。有能でカリスマ的な経営者、いなければ専門分野に精通した複数の人材による管理組織の存在。三社を追いかけていた古河商事には、そのいずれも欠如していた。破綻もやむなしだった。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『日本の15大財閥 現代企業のルーツをひもとく』菊地浩之著 平凡社新書
『財閥の時代』武田晴人著 角川ソフィア文庫
『財閥のマネジメント史』武藤泰明著 日本経済新聞出版