明智光秀の軍勢が本能寺を取り囲んだのは、六月二日の早朝であった。
多勢に無勢。短い戦闘のあと、寺は猛火に包まれ織田信長は自刃して果てた。四十九歳の生涯であった。
果てる前に「だれの仕業か」と小姓の森蘭丸に問うた信長は「明智の軍勢と見受けます」と聞き、「やむを得ぬ」と一言発したという。信長は謀反の可能性を承知していた。
可能性はあるが、今ではないだろう――。ひと言で言うと信長の油断だが、敵の虚をつくのは兵法の基本。ここまでは光秀の狙い通りだった。
織田の諸将は戦地にいる。「これで天下は手に入る」と光秀は権力奪取の成功を確信した。
しかし、いま一人、光秀の不穏な動きを事前に察知していた男がいた。中国路で毛利と対峙していた羽柴(豊臣)秀吉である。
備中・高松城の水攻めの長期戦を覚悟していた秀吉のもとに、本能寺の事態が伝えられたのは、翌三日夜のことだという。
直ちに秀吉は毛利との間での和睦を進め、高松城主の切腹と引き換えに毛利、秀吉双方の撤兵を取り付け、三日後の六日には強行軍で京を目指すのである。
講談調の物語では、明智が毛利を味方に付けようと放った「信長死去」を告げる伝令が誤って秀吉のもとに到着したとか、あるいは、逡巡する秀吉を黒田官兵衛が「天下を取るなら今だ」と尻を叩いたとか、面白おかしく伝えられている。
しかし、そうしたお伽話は、“知恵者秀吉”“軍師官兵衛”を際立たせるための作り話に過ぎない。
信長の中国出兵を願ったのは秀吉自身であって、その後、京都の軍事的空白のただ中に信長がいることも承知している。
信長が中国増援の先兵として光秀を指名したことを知り、その来援を今日か明日かと待ち望む秀吉が、光秀の動静を逐一把握していないわけがない。
連歌の会での光秀のきわどい作句も知り予め謀反必至と見ていたかもしれない。そして事前に「その後」を算段思案したに違いない。
主君の仇を討つことで、自らは主君殺しの汚名を着ることなく、正義の将として天下が取れる。官兵衛の入れ知恵がなかろうと見当はつく。
そして、各武将は戦地にいる。情報収集には怠りがない。秀吉の素早い行動からは、この機会を待っていたかにも見える。
であればこそ、誰よりも早く光秀を討たねばならぬ。
光秀より一枚上手の秀吉は、大雨の備中を発って、姫路、尼崎と強行軍で駆け抜け決戦の地、山崎へと急ぐ。
これが「中国大返し」の真実である。(この項、次回に続く)