日中国交正常化に向けて動く田中角栄が、密かに外務省中国課長の橋本恕に依頼したロードマップ(青写真)は、年が開けた1972年正月早々、まだ通産相だった田中の元へ届く。
親台湾派の多い与党・自民党内で共産中国との関係改善はタブーであった。しかし野党からは社会党、公明党、民主党の幹部らが相次いで訪中し、情報をもたらす。
台湾の扱いを含め国交正常化へのハードルは高かったが、最大の難関は、日米安保体制を維持したままで日中国交正常化は可能か、という一点にあった。これまで中国は、中国を敵視する日米安保の廃棄を強く求めていた。
野党の訪中団がもたらす情報と外務当局者間の接触から、中国が正常化にあたって日本に求めた条件は、以下の三原則の受容だった。
①中華人民共和国が中国唯一の正統政府である
②台湾は中国の一部である
③日華平和条約は廃棄する。
安保には触れていない。
国交を正常化するのなら、①と②は当然の前提となる。問題は③にあった。
敗戦後日本は、1952年、台湾に落ち延びた蒋介石政権との間で、平和条約を結び、締結にあたり蒋介石は日本への賠償を放棄していた。
放棄について蒋介石は「以徳報怨(徳を以て怨みに報いる)」と言ったという。実のところ引き換えに中華民国(台湾)を唯一の中国政府として認めさせるという、冷徹な国際政治力学が働いていたが、500億ドルの賠償放棄が日本の戦後復興の原動力になったことは疑う余地がない。日本は台湾に借りがあった。
しかも、北京政府からあらためて賠償請求があれば、どうするか。難題となる。
2月、橋本レポートを手に田中側近たちが都内のホテルに集まる。
「日中国交正常化を望んでいるのはむしろ中国だ」「日本の軍国主義復活を過渡に恐れる中国にしてみれば、日米安保は日本の本格再軍備、核武装を抑える手立てとして認めるだろう」「台湾問題は、私(田中)と毛沢東、周恩来で話し合えばなんとかなる」。議論の流れは「大丈夫、いける」となった。この日、田中は新政権での早期訪中を決断した。
政権誕生の5か月前のことだ。会合から間もなく米国大統領ニクソンが電撃訪中する。
「これは日本にとっても一つの大きなチャンスとなったんだよ。政治にはね、そういうチャンスというか、勝機をつかむタイミングというか、かけがえのない一瞬がある」
田中はそのチャンスを逃さなかった。 (この項、次回に続く)