田中角栄政権が誕生して、戦後の最大懸案の一つとして残されていた日中国交正常化交渉が動き出す。電撃的な田中訪中だと思われているが、田中が密かにその計画の可能性を探りはじめたのは、首相就任から遡ること一年。まだ通産相として日米繊維交渉に乗り出す前で、田中は自民党幹事長だった。
1971年夏、田中は、外務省の中国課長・橋本恕(ひろし)と二人だけで会っている。
「おい、おれは政権を取ったら日中をやる。それには準備が要る。どうだ、外務省きっての中国通の君の見識を見込んで頼むんだが、日中復交の見取り図を書いてみてくれんか。時期か?来年の7月だ」
ポスト佐藤栄作の政権の行方は、いまだ混沌としていた。佐藤のあとは福田赳夫が有力だと、誰もが見ていた。その政治駆け引きに専心しているであろう段階で、すでに政権取りを前提に、田中政権の目玉を準備している。
権力争いに全精力をつぎ込むようでは、権力を得ても燃え尽きてしまう。トップになったら何をなすか、先を見越して仕込む。おざなりになりだちだが、これがリーダーの重要な資質の一つだ。
秘密裏に慎重に進めなければならない理由があった。米国大統領のニクソンは同年夏、外交補佐官のキッシンジャーを極秘で北京に送り込み米中国交正常化の地ならしに入っている。日本政府の先走りが表面化すれば、米国は牽制どころか露骨に妨害するだろう。
さらにやっかいなのは、国内、とくに自民党内の親台湾派の抵抗だ。元首相として隠然とした力を持つ岸信介をはじめ、ライバルの福田も日中国交正常化に否定的だ。田中は“親中派”だということで、ポスト佐藤のレースから外されかねない。
「でも、やらにゃ、いかん」と田中は確信していた。その信念を田中は回想している。
「わたしの基本にあったのはね、日本と中国とアメリカで二等辺三角形をつくるべきだ、という考え方だ。これが正三角形になるとケンカばかりするようになって困るから、アメリカを底辺にして中国と日本が左右の二辺になる二等辺三角形を形成し、それに台湾と韓国が控えるという形だ。これなら極東の平和は確保される」
東西冷戦構図から脱して、米国が中国と手を握り、ソ連を封じ込める。だれもが慌てた米中接近の事態を目の前にして、田中の外交コンピュータは、複雑な国際関係方程式の解を導き出していた。 (この項、次回に続く)