国民を叱咤激励する話術
ロシア軍が隣国のウクライナに電撃侵攻した。ロシア大統領のプーチン大統領は、「ウクライナ国内のロシア系住民をナチによる大虐殺から守る」ことを侵攻の名分にあげたが、だれの目にも、プーチンの無理手である。首都キエフ近郊まで攻め込まれたウクライナの大統領、ゼレンスキーは、ずっと国内に留まり、S N Sを通じて、「祖国と子供たちを守る」として国民を明るく激励し徹底抗戦を呼びかけている。国民は祖国防衛の意志を失わずロシア軍は苦戦している。
80年前の欧州には、ナチス・ドイツが戦車と航空兵力で大陸諸国を席巻した歴史がある。時の英国首相チャーチルは、国民に徹底抗戦を呼びかけて奮い立たせ、ドイツを降伏に追い込んだ。チャーチルが持ち合わせていた最大の力は、あるいは皮肉、あるいは逆説を巧みに織り込んだ話法で、反対者を傷つけることなく味方に引き込み国民の一致団結を築く才能だった。
1940年5月、戦時内閣の首相兼国防相に就いたチャーチルの初仕事は、大陸に派遣した英国将兵の引き揚げだった。オランダ、ベルギーは次々とドイツの軍門に下り、フランスも戦意を喪失していた。ダンケルクから将兵の無傷での帰還を成功させたが、英国内には、「英国島に引きこもれば、われわれだけでも生き残れるだろう」と厭戦気分が広がる。政府内でもドイツとの和平を探る動きが出たが、チャーチルは拒絶した。「歴史を見れば、戦いながら倒れた国民は再び立ち上がった。おとなしく降伏したものはそれで終わった」。彼の信念だった。
ダンケルクからの撤退直後、彼は下院で演説する。「戦争は撤退によって勝てるものではない。欧州の大部分の領土と古い国々がゲシュタポと嫌悪すべきナチの手に落ちても挫けはしない。われわれは最後まで戦い続ける」
アメリカをも動かして勝利へ
毅然とした演説は、全国津々浦々にラジオ放送される。チャーチルは庶民の心を取り込み政界にはびこる宥和(ゆうわ)主義を一層した。それだけではなかった。演説はこう続く。
「われわれは決して降伏しない。たとえこの島国ないしその大部分が征服されて飢えることになっても海の彼方の帝国は英国艦隊を武器として戦いを続けるであろう。神のご都合のよい時に、新大陸がその力をもって旧大陸の救出と解放に乗り出してくる時まで」
「古い国々」は、フランスへの皮肉である。「海の彼方の帝国」「新大陸」の表現は、第一次大戦後、大国として急速に力をつけてきた米国に対する期待をこめたユーモアである。それが、侵攻直後にドイツに降ったフランスと、いつまでも参戦を決断しない米国に対する嫌味に響かないのは、戦争継続への強い決意に縁取られているからなのだ。「征服された後の英国艦隊を武器に」という一見矛盾した表現は、演説を聞く国民に、衰えたとはいえかつて七つの海を制覇した昔日の大国のイメージを巧みにダブらせる。さらに二度の海相を勤めたチャーチルの経歴も重なり、「不敗」の決意を新たにさせた。
それでも当時、孤立主義を守るアメリカは参戦に動かなかった。武器支援を送ってくるだけだった。
その米国がついに動く。翌年12月8日、日本の機動部隊が真珠湾を奇襲攻撃したと聞いたチャーチルは、「これで勝った」と快哉を叫んだという。米国大統領ルーズベルトがついに参戦を決意したからだった。二日後にマレー沖海戦で英国海軍は新鋭戦艦プリンス・オブ・ウエールズと巡洋戦艦のレパルスを日本の機動部隊に撃沈されたが、チャーチルの「これで勝つ」の信念は揺るがなかった。
思惑通り、米国の参戦で欧州戦線でも形勢は逆転してヒットラーのドイツを降伏に追い込む。
人を動かす表現の力
ユーモアとは、一般に理解されている「気品のあるしゃれ」ではない。思わずくすりとさせるだけの機知でもない。それは〈ウイット〉という。ある時は自分の弱点も素直にさらけ出して、事の本質を切り取り、相手に見せる話術だ。自らもさらりと解剖して見せるから、批判しても相手を見下す訳ではない。意見が対立する相手をも思わずうならせ、提示した意見の賛同者を増やすことになる。相手も気づかなかった真理にはっとさせられるから、恨みも敵も作らない。
さらに言えば、窮地にあっても楽観的でいる心持ちがユーモアの底にはあるから、危機あるいは対立の局面にあってこそユーモアは生きる。和やかに人を納得させ、思い通りに人を動かすことが可能なのだ。
さて、第二次世界大戦はチャーチルの狙い通りに、米国を戦いに巻き込むことに成功した。しかし、戦略、戦術に関してチャーチルと米軍の間で齟齬をきたすことがあった。チャーチルは言い出したら聞かない男だ。両軍の関係がギクシャクする。
閣僚の一人が興奮してきつく忠告した。「閣下、アメリカに友好のキスをしなければなりませんぞ」
チャーチルは憮然として彼を睨みつけながら答えた。
「そう。もちろんだ。しかし、キスは片方の頬だけにだね」
米軍の助けは貰っても、指揮権は英国首相の自分にある。それがチャーチルの矜持であった。
首相と閣僚、ともにジョンブル(英国紳士)としてユーモアでのコミュニケーションを卒なくこなしていた。
「ロシアは、核大国であることを忘れないでもらいたい」と、ひきつった顔で脅すプーチンのテレビ演説からは、ユーモアの微塵も感じられない。ロシア国内各地では、侵攻支持どころか戦争反対のデモが起きている。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『チャーチル』河合秀和著 中公新書
『チャーチル・ファクター』ボリス・ジョンソン著 石塚雅彦、小林恭子訳 プレジデント社
『チャーチル150の言葉』ジェームズ・ヒュームズ著 長谷川喜美訳 ディスカバー・トゥエンティワン