スカルノの助命嘆願
1945年(昭和20年)の敗戦で、連合国は、日本軍の指揮官たちへの戦争犯罪裁判を急ピッチで進めていた。旧帝国陸軍大将で、ラバウルを管轄の第八方面軍司令官として終戦を迎えた今村均(いまむら・ひとし)は、オーストラリアの軍事法廷で10年の禁固刑を言い渡されたあと、インドネシア・バタビアのチビナン監獄に移送された。開戦当時、第十六軍司令官として進駐したインドネシアでの戦争犯罪について宗主国オランダの軍事裁判を受けるためだった。求刑は死刑。
ある日、政治犯として収容されていた独立運動の将校二人が今村の房舎を訪ねてくる。
「インドネシア独立政府首班スカルノの伝言を伝えたい」。日本の敗戦後、独立軍を率いるスカルノ(のち初代インドネシア共和国初代大統領)は、オランダからの完全独立を目指し戦っていた。
「このままでは今村大将にも死刑判決が下るでしょう。われわれは、死刑当日、あなたを刑場から奪回する計画を立てている。その際は躊躇されず、差し向けの車に飛び乗って欲しい」
救いの手である。しかし今村は毅然と申し出を断った。
「スカルノ政府の厚意には大いに感謝はするが、日本の武士道ではそうやってまで生き延びることは不名誉なこと、としている。奪回に応じないことを了承してくれとスカルノ氏に伝えてもらいたい」
不思議なことに、まもなく死刑の求刑は却下され、無罪判決がおりた。そして独立を勝ち取ったスカルノからの伝言が届く。
「今村大将が無罪となられたことを心から喜んでおり、8年前に与えられた厚意は決して忘れておりません」
植民地解放の理想
8年前、今村が太平洋戦争開戦と同時にインドネシアに着任したとき、ジャワのバンドン工科大学教授出身のスカルノは、オランダからの独立運動に身を捧げ、オランダの弾圧を受けてスマトラの監獄に収容されていた。ジャワ島のオランダ軍攻略を終えた今村の軍政部あてに教え子たちから嘆願書が届く。「インドネシア民族の希望の星であるスカルノ先生をスマトラの監獄から救い出して下さい」
今村は彼を釈放する。仏印のサイゴンにあった南方軍総司令部からは「急進派の危険分子を野に放った」として批判の声が上がったが、今村は意に介さなかった。そしてスカルノを書斎に招き入れてざっくばらんに会談する。
「この戦争が終わったあと、両国の関係がどうなるか、私に約束する権限はありません。私がインドネシア6千万の国民にお約束できるただ一つのことは、私が行う軍政はオランダ時代よりよく、国民福祉の向上に努力します。あなたが軍政に協力するか、中立的に観望しているかはご随意です。後者の場合でも、軍はあなたの生命財産と名誉とを完全に保護します」
大戦中、日本軍が進出した各地での軍政が苛烈を極めた中で、今村軍政は異彩を放っている。日本は、〈欧米の植民地からの解放〉を戦争の大義に掲げていたが、実を伴っていなかった。今村は、インドネシア進駐で、それこそが「大東亜共栄圏」の理想だとして体現して見せようとしていた。今村の人柄からにじみ出る誠実な対応が、日本軍の出方に疑心暗鬼だったスカルノの心を取り込んだ。実際にオランダ人が占めていた中央、地方の公務員の職の大部分をインドネシア人に任せてゆく。政策実行も、今村・スカルノ間で協議機関を組織し民主的に決めることにした。
スカルノが、「8年前に与えられた行為を忘れない」と言ったのは、このことだった。今村に死刑が求刑されたのを知ったスカルノは、外交ルートも動員して今村の助命に動き、復讐に燃えるオランダの動きを封じた。
憎しみによる強硬策は反発を生むだけだが、信頼は信頼を生むのだ。
ロシア軍の愚
プーチンがロシア軍を大動員してウクライナに雪崩れ込み2週間以上が経つが、戦いは泥沼化の様相を見せている。プーチンは、「ネオナチに牛耳られているウクライナの現政権を打倒する」ことを侵攻の理由に挙げているが、当のロシア国民でもこの戦争動機を信じるものは少数だろう。大義がないのだ。
電撃作戦がこう着状態に陥るや、日ごとに犠牲が増えるロシア軍の士気は下がり続け、民間人の居住地区、挙げ句の果てには病院、産院にまで爆撃を繰り返す。それに伴い、軍備で劣るウクライナ軍、国民の抵抗の意志と結束はますます高まるばかりだ。
外部から客観的に見れば、ロシア軍の行為こそ、第二次世界大戦における、何の大義もないナチスドイツによるソビエト・ロシアへの電撃侵攻と重なる。愚行である。
軍という組織は、勝利という至上命題に向けて命令に絶対服従が強いられる。しかし、兵の犠牲、敵の殺傷を最小限にする努力は、指揮官の裁量で可能だ。
次回は、不敗の名将・今村の戦闘指揮の現場を見てみる。(この項、次回に続く)
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『今村均回顧録』今井均著 芙蓉書房
『不敗の名将 今村均の生き方』日下公人著 祥伝社新書
『昭和の名将と愚将』半藤一利、保阪正康編 文春新書