劉邦、白登山(はくとうさん)の屈辱
ウクライナ、パレスチナと、世界情勢は何やらきな臭い。いずれも当事国(地域)は、ロシア、イスラエルという強大な軍事力を持つ勢力が力で現状を変更させようとしている。日本の周囲を見渡しても、台湾有事を巡る高市早苗首相発言をめぐり日中関係が緊張している。国だけではない。企業活動においても巨大なライバルとの間で緊張を緩和して生き残る道を開くために古人はどのような知恵を働かせてきたのか。
* * * * *
舞台は古代中国。始皇帝が初めて統一国家の秦を建国して以来、辺境の安定、とくに北方の防備は最重要課題だった。入れ替わり立ち替わり立ち現れる北方の遊牧民族国家への対処に手を焼いてきた。この時代、始皇帝が整備した初期の万里の長城の北には、匈奴(きょうど)と呼ばれる遊牧民族がいた。始皇帝の時代、冒頓単于(ぼくとつ・ぜんう)という王が出て、それまで緩やかな連合体だった民族組織を強固な軍事国家に作り上げて、南侵圧力を強める。
始皇帝の死後、秦はあっけなく崩壊するが、その混乱を、劉邦(りゅうほう)がおさめて漢帝国を開く。劉邦(高帝)がライバルの楚王・項羽(こうう)との決戦に勝って皇帝に即位したのが紀元前202年。二年後に、匈奴討伐の軍を起こす。しかし、白登山(はくとうざん)で冒頓単于(ぼくとつ・ぜんう)の大軍に包囲されて惨敗。かろうじて都へ逃げ帰った。統一直後の屈辱となった。
武帝の反攻
劉邦は、匈奴との間で和睦を結んだ。匈奴へは毎年、貢物を贈るとともに互いに公主(妃)を交換して人質とした。恥をしのんで対外戦争より国内の統治整備を優先させる。大陸国家で四囲を異民族に囲まれた中国では辺境の安定は最重要だ。どこかが破られると帝国は瓦解する。
北方が悩みの種だった。歩兵軍主体の漢にとっては騎馬が得意で馬上から弓を射る遊牧民の戦闘方式は脅威だ。現代で言うなら機動力に優れた戦車軍団に歩兵で立ち向かうようなものである。「敵わぬなら、ことを構えず国力の充実を図る」戦略をとった。
続く文帝、恵帝の二代40年は、この戦略(懐柔策)を踏襲した。その間に、国の穀倉は溢れんばかりに経済力をつけてゆく。
四代目の武帝は戦略を変える。「白登山の恥を雪(すす)ぐ」と雪辱を誓った。武帝はまず軍事外交官の張騫(ちょうけん)を西域に派遣する。匈奴との闘争に敗れて西へ追いやられた大月氏(だいげつし)との同盟を結ぶことで、匈奴を挟み撃ちにしようとの構想だ。大月氏は非戦ムードが強く同盟は成立せず、張騫も二度、匈奴に捕えられた。しかし、この遠征によって、西域への交易路が開かれ、また、軍馬供給も可能となった。漢軍の近代化が進む。さらに彼が囚われの身となることで、冒頓単于(ぼくとつ・ぜんう)死後の匈奴の体制内のほころび、内紛に関する情報も手に入った。
漢軍は近代化された軍団を数次に渡り匈奴征伐に差し向けて、紀元前119年、ついに匈奴軍を破って彼らを北方へと撃退することに成功した。白登山の屈辱から81年後のことである。
総合力で圧倒する
勝敗を決めたのは軍事力の増強だけではなかった。文帝、恵帝の40年間も含めて、劉邦が描いた強国づくりの戦略に基づいて、匈奴を懐柔しながら、内では教育、官吏登用制度、商業、農業に関する法整備、地方の統治制度の充実を図ってきたことが大きかった。道路を整備することで軍の移動を容易にしただけでなく、商業活動も活性化された。匈奴とその周辺の遊牧民族の長たちを都の長安へ招き、国力の充実ぶりを体感させて、「これは敵わない」との意識をすり込んだ。文化を含めた総合力で、匈奴を圧倒することが悲願達成につながる。
ひるがえって、現在の台湾海峡問題を考える。習近平率いる中国共産党指導部の歴史観では、〈清朝末期のアヘン戦争以来、近代化に遅れをとることで国は列強に侵略される屈辱を受けた、屈辱を晴らすためには、強国を作り上げる必要がある〉と考える。今や、軍事力、経済力ともに米国に次ぐ世界第2位にまで上り詰めた。英国に期限付きで割譲された香港の施政権の掌握に成功し、残るのは台湾統一問題なのだ。
そう考えると、軍事侵攻はいざ知らず、「一つの中国」の原則を日米を含めて世界に認めさせた以上、軍事力を誇示しながら「中台統一」に近い将来に動くことは自明の理なのだ。
日本に問われているのは、軍事力での対抗ではなく、事態の沈静化に向けた冷静で強力な外交努力なのだ。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考資料
「世界文学大系 史記1、2」司馬遷著 小竹文夫、小竹武夫訳 筑摩書房
「中国五千年 上」陳舜臣著 講談社文庫
























