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- 逆転の発想(43) 柔軟な対応こそ真の一貫性(中曾根康弘)
“田中曾根内閣”の発足
自民党内の弱小派閥を率いる中曽根康弘が、最大派閥の田中派の支援を受けて党総裁選に圧勝し政権を発足させたのは1982年(昭和57年)11月のことだった。
当時の自民党は、ロッキード事件で失脚した田中角栄が依然として党権力を掌握し、“闇将軍”と呼ばれて隠然たる力を発揮していた。中曾根は、その田中の後押しで総理の座に上りつめたものの、発足した中曾根内閣は田中の傀儡(かいらい)と見られ、〈角影内閣〉〈田中曽根内閣〉と揶揄された。
党内きってのタカ派の論客で青年将校とあだ名された中曽根だが、「政界の風見鶏が首相の座ほしさに田中に魂を売った」と陰口を叩かれた。やはり田中が首相に押し上げた直前首相の鈴木善幸は、内政、外交ともに政策決断ができず、田中は首のすげ替えを図ったのだ。田中が中曾根擁立に傾いた段階で、田中派の幹部らは、「なんでこんなオンボロみこしを担ぐのか」と田中に詰め寄った。それに対して田中は、「オンボロみこしだからいいんだ。いつでも捨てられるじゃないか」とうそぶいたという。
政権発足から一週間目のある新聞による世論調査で内閣支持率、不支持率ともに37%だった。政権発足直後の不支持率としては歴代最高、支持率も福田、岸内閣についで三番目の低さだった。直前の鈴木内閣同様、短命政権に終わると見られていた。
実績を上げることこそ力の源泉
中曽根は組閣人事で、総裁派閥から起用するのが不文律であった政権ナンバー2の官房長官に田中派から後藤田正晴を抜擢した。「やはり、後藤田は田中のお目付役だ」とメディアは早速批判する。「軍門に下ってまで首相の椅子が欲しいのか」との声に対しても中曽根は意に介さず、「どのような形でも射止めた念願の首相の座についた。あとは首相の絶大な権限で、これまで温めてきた政権構想を実現していく。実績こそ国民は評価するはずだ」と心に秘めていた。権力の維持に必要なのはビジョンとその実現を裏付ける実行力だ。
鈴木内閣が決断を先送りしてきた政策課題は山積している。行財政改革、安全保障の強化、韓国から要望の強い円借款問題などなど。官房長官への就任に最後まで尻込みしていた後藤田には、「まずは行財政改革で成果を出したい。あなたには役人を掌握してもらいたい」と具体的に指示する。田中の意向がどうであれ、官僚たちの抵抗を抑え込むには、内務官僚出身の後藤田が適任と睨んでのことだ。
初の臨時国会での所信表明演説で中曽根は明確に政策ビジョンを示した。
▽平和の維持と民主主義の発展▽たくましい文化と福祉の国づくり▽増税なき財政再建▽安保体制の維持、質の高い防衛整備をはかるが、軍事大国にはならない
一つ一つ国民にとってわかりやすい目標を具体的に示した。
国民の支持を得て政権を強化し、田中離れを実現
ビジョンを示すことだけなら誰でもできる。具体的に行動し、実績を積み上げることがリーダーの条件である。
年が明けるや中曽根は電撃的に韓国へ飛んだ。借款提供問題にケリをつけるとともに、東京から拉致され逮捕監禁されたままの野党指導者金大中(キム・デジュン)氏の釈放、米国移送を全斗煥(チョン・ドファン)軍事政権に説得し実現。引き続いての日米首脳会談では、レーガン大統領との間で日本の日安全保障負担の増額を約束し、ギクシャクしていた日米韓の安全保障体制を強化する。
懸案の国鉄の分割民営化も実現し、国の負担を大きく減らすことに成功する。
一方で、中曾根が戦後一貫して主張してきた憲法改正、靖国神社への首相としての公式参拝を封印する。タカ派を自認しながらも、東アジア情勢、国内情勢を睨みながら柔軟な対応力を見せている。
結果的には、その行動力と柔軟性への国民の共感を得て、野党との駆け引きの中で電撃的に衆参同日選挙を打って安定過半数を確保し、次第に田中角栄の影響下から脱して、5年にわたる長期政権を実現した。
彼の政治人生は政権取りから、政策実現まで柔軟性で一貫しているのである。掲げる信条にこだわり殉死することは潔いかもしれないが、ビジョンは実現できずに終わる。そんなリーダーのなんと多いことか。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『中曾根康弘』服部龍二著 中公新書
『自民党戦国史(下)』伊藤正哉著 朝日文庫