政治嫌いが政治の前面に
ポツダム宣言受諾による混乱なき終戦は、戦中最後の首相を引き受けた鈴木貫太郎なしにはありえなかった。明治維新以来、政治に口を出す藩閥軍人が続出する中で、鈴木は海軍兵学校を卒業したのち、艦隊勤務、連合艦隊司令長官、海軍大将で予備役に編入されるまでの海軍人生で、一貫して政治と距離を置き、冷静な目で政治、外交情勢を見続けていた。その軍人としての頑固なほどの誠実さが、折々の危機局面で頼りにされた。そして職務を全うする。
千葉県にあった関宿藩の藩士の家に生まれた鈴木貫太郎は、1884年(明治17年)に海軍兵学校に第14期生として入学した。「末は大将に」と夢を持っての入学だったが、当時の海軍は「薩摩でなければ海軍にあらず」と言われた藩閥重視の人事が横行していた。鈴木は寝る間も惜しんで軍務に励んだが、藩閥人事に失望した鈴木は、「出世より、海軍、国家、天皇のために働く」と行動基準を踏みかえた。
たとえ避けてはいても、地位が上がれば政治的要務は降りかかってくる。誠実さを見込まれて鈴木に声がかかったのは、1914年(大正3年)1月のこと。海軍備品の納入をめぐって海軍高官による大規模な汚職事件が起きる(シーメンス事件)。海軍藩閥ボス出身の首相・山本権兵衛(やまもと・ごんのひょうえ)と海軍大臣・斎藤実(さいとう・まこと)、山本の娘婿の海軍次官・財部彪(たからべ・たけし)が責任を問われて辞職。海軍創設以来の危機だった。代わって海軍大臣に就任した非薩摩閥の八代六郎(やしろ・ろくろう)は、鈴木の武人タイプで実直な人柄に目をつけ海軍次官就任を懇請する。
鈴木は、「政治駆け引きが必要な行政仕事はしたくない」と再三固辞したが、「生命をかけて海軍の体質を改善する」との覚悟を八代から聞かされて、「待合での接待や政治的かけ引きはやりません。それでよければ」と条件をつけて承諾した。
目標のために進む誠実さ
海軍省人事局長を兼務する鈴木は、八代海軍相の指揮下で果敢に人事刷新と綱紀粛正に取り組む。事件に関与した海軍高官らを粛清し、山本権兵衛、斎藤実の薩摩出身の両大将に責任を取らせて予備役に編入した。下手をすれば、海軍内の政争に巻き込まれ首が飛ぶ。それを跳ね除けて瞬く間に事件処理の成果を上げたのは、鈴木が八代と歩調を合わせて「海軍最大の危機からの脱出」という目標を明確に見据えて怯(ひる)まなかったからだ。
両大将の予備役編入は、直ちに波紋を呼んだ。海軍の“神様”でもある日本海海戦の英雄、元帥の東郷平八郎が、海軍省大臣室を訪ねて、「功労ある両大将を予備役に編入するとは何事か」と八代を難詰したのだ。八代は、鈴木を同席させ、きっぱりと“神様”の要求を拒絶する。
「事件によって両大将の海軍部内における信頼はもはや地に墜ち、現役に留まる必要なしと認めるに至ったからです」。東郷は、「よくわかりました」と席を立ったと鈴木は自伝で回想している。この上司あってこそ鈴木は思う存分、活躍できた。
シーメンス事件余聞
事件処理にはメドがついたものの、鈴木の目の前に難題が持ち上がった。同年8月の日独開戦(第一次世界大戦参戦)で海軍が提出した臨時軍事費要求に大蔵省が難色を示したのだ。これまでも海軍の大規模な艦隊整備予算に大蔵省は不満を募らせていたが、シーメンス事件で海軍への社会的批判が高まったのを機に、野党政友会と組んで削り込みに動く。当面、駆逐艦10隻の新造計画が槍玉に上がった。
危機感を覚えた鈴木は、八代の了解を得ずに動く。大蔵次官の浜口雄幸(はまぐち・おさち)、政友会の幹部を次々と訪ね、「駆逐艦は建造が先送りにされ続けて、老朽化が進み、役に立たない。海軍の士気に関わる。国家の危機である」と正論で説得して回った。説得は功を奏して、国会は全会一致で臨時予算案を承認した。
「勝手に動くな」とのちに大臣からは大目玉を食らったが、この時の新造駆逐艦の一隻は、その後地中海に派遣され、連合国の間で、「日本のやる気」が高く評価される役割を果たす。
権謀術数を嫌い愚直なまで正攻法を貫くことを信条としながら、「今だ」と判断すれば、独断専行的であろうと即座に行動する。こうして培われた鈴木のリーダーシップが、31年後、終戦への決断を導くことになる。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『鈴木貫太郎自伝』鈴木一編 時事通信社
『近代日本のリーダーシップ』戸部良一編 千倉書房