大物浦(だいもつのうら)沖での遭難のあと、対岸の大阪・住吉に上陸できたのは義経、白拍子(踊り子)出身の愛人・静御前ら、わずかだった。他の従者たちは水死、あるいは捕縛されている。
その後の義経の足取りは後世、さまざまに脚色され、語り物、戯曲の題材となった。しかし確かなことは、いったん吉野に落ちのび、山伏姿での奈良、京都での潜伏生活を経て、北陸道から奥州平泉に向かい、奥州藤原氏の庇護を求めたことだけだ。
頼朝の行動は素早かった。怒りは自分への追討院宣(いんぜん)を出した法皇・後白河に向かう。
後白河は青ざめて密使を関東に送った。
「今回の事件はまったく朕(ちん)のあずかり知らぬところだ」と弁明し、政治からの引退を宣言する。
さらには、「義経逮捕」の院宣を下す。「頼朝を討て」と命じた舌の根も乾かぬうちに。後白河と頼朝の権力抗争が本格化する。
政治、組織運営はリアリズムである。情の入り込むすきはない。駆け引きは続く。
頼朝は、後白河に返書を送る。
「あずかり知らぬと言うが、あなたの考えと無関係に(頼朝討伐の)院宣が下されるものなのか。義経を放置することで国は疲弊する。日本国第一の大天狗は他にはおらぬ」
義経をたとえたようでいて、後白河を「大天狗」と罵ったとも取れる脅し文句で朝廷を震え上がらせる。攻め時には一気に政敵に攻めかかる頼朝は政治家なのである。
屈服を装った後白河もただものではない。義経が追っ手から逃れ続けられたのも、朝廷の庇護があったからに他ならない。
「義経と奥州藤原を結べば、情勢はまだ変わる」という後白河の思惑が透けて見える。
静御前は、義経と別れたあと吉野で捕らえられ鎌倉へ送られる。義経の子を宿していた。
ある日、頼朝と妻の政子は「名手だというその舞いを見たい」と、義経の行方をひた隠す静を呼び出した。
舞い始めた静は、義経を慕って歌う。
よし野山みねの白雪ふみ分けて
入りにし人のあとぞ恋ひしき
静は囚われの身のまま、男子を産むが、頼朝はその赤児の殺害を命じる。思い起こせば平治の乱のあと、平清盛の温情で死罪を免れた自らが平氏を政界から放逐するに至った。その轍(てつ)を踏むまいと考えたか。
権力維持のために嬰児殺しもいとわぬ政治のリアリズム。しかし義経一族排斥の執拗な怨念が、やがて鎌倉政権に不安定さをもたらすことまでは予期していなかった。 (この項、次回へ続く)