1989年は歴史を揺るがす画期的な年となった。同年11月9日、東西ベルリンを隔てていた壁が崩壊し、第二次大戦後の世界を縛り続けた東西冷戦構図に風穴が開いた。それは破れた堤防から流出する奔流となって、ドイツ統一、ソ連の崩壊へ繋がり、世界地図を書き換えた。
東西両陣営の盟主だったソ連、米国の指導者も望まなかった急速な変革はなぜ起きたのか。
背景を探ると、歴史の流路を見抜いた東欧のある小国のリーダーたちの、時を逃さない決断と確信に裏付けられた粘り強い行動が浮かんでくる。一方、流れに乗り遅れた国々のリーダーたちは、混乱の中で歴史の舞台から消え去ったのである。
“鉄のカーテン”消滅のドラマが示すのは、リーダーに必要な能力とは、目の前の権力抗争、権力維持の才能ではなく、決して逆流しない歴史の流れの行方を見抜く力ということだ。
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ベルリンの壁が崩壊するほぼ1か月前の10月6日、ソ連共産党書記長ゴルバチョフはベルリンに着いた。社会主義陣営の最前線、東独の建国40周年式典に出席するためであった。
ゴルバチョフは、書記長就任以来、グラスノチ(情報公開)、ペレストロイカ(改革)を旗印に国家の立て直しを進めている。
米ソ間の軍拡競争での軍事費増大と、最大の輸出品である原油価格の暴落で疲弊したソ連経済の立て直しが、1985年に書記長となった彼の最大の課題だった。あくまで「社会主義体制の枠内での改革」だが、民主化改革は避けられないと考えていた。
ソ連からの経済支援に頼ってきた東欧各国に対しても、「自主経済を目指して改革に向かえ」と繰り返している。
翌日の式典で、東独国家評議会議長・ホーネッカーの演説は、旧態依然だった。
「西側諸国の大量の失業者を見たまえ。わが国には失業者もホームレスもいない。科学分野でも先端技術の開発は順調である」。民主化への言及はひとこともなかった。
ベルリン到着後、ソ連大使館を取り囲んだ市民のデモ隊が、「ゴルビー、ゴルビー、われわれにも民主化を」と叫ぶのを見たゴルバチョフは、渋面で演説を聞いていた。
式典後、ホーネッカーと社会主義統一党政治局の幹部たちを前にゴルバチョフは、ソ連の民主化の取り組みについて、「困難な道だが、やり遂げねば、生き残る道はない」と語りかけた後で、冷ややかに言い放った。