フランス革命で混乱する内外事情
都市の商工人、知識層を中心とするブルジョア階層と持たざる大衆が力を合わせて「自由と法の下の平等」を訴え、封建領主支配に基づく旧体制を打倒したフランス革命だが、その前途は多難だった。
まずは欧州各国からの革命干渉だった。フランス革命の進展は、隣国のプロイセン、オーストリアなど、国王を頂点とする国々にとっては体制を根本から揺るがしかねない由々しき事態だった。諸国軍はフランス国境に押し寄せて圧力をかける。混乱期のフランスは、軍事力で劣っていたから、革命体制の防衛戦に力を削がれた。
さらに国内的には、旧体制復活派と、大衆との対立は根深く、国民議会の主役であるブルジョア層による国の舵取りは右に左に揺れた。それでも国の統一を保つためのブルボン王家は、「絶対で不可侵な存在」として維持されていたが、革命勃発から2年後の1791年に定められた憲法で、「フランス国王」から、「フランス人の王」へと象徴的な地位に引き下げられている。さらに翌年には王権が停止され、1793年1月、ルイ16世と王妃のマリー・アントワネットは断頭台の露と消えた。
左派の独裁恐怖政治が始まり、周辺国からの圧力はさらに強まる。
ナポレオンの登場
こうした混乱期に登場したのが、地中海コルシカ島出身でフランス国軍の砲兵将校だったナポレオン・ボナパルトだ。ナポレオンは、対オーストリア戦争で連戦連勝して国民の期待を一身に背負うようになる。ヨーロッパ大陸の大半を勢力下においたナポレオンは、1799年11月にはブルジョア勢力と組んでクーデターを成功させ、第一統領として政権の座につく。
ナポレオンは単なる天才的軍事戦略家だけではなかった。フランス革命にかけたブルジョアたちの社会的改革要求をよく理解していた。ブルジョアたちは、旧体制では、地域ごとに割拠する領主による支配の下では、地域ごとに課税、商習慣が異なり、円滑な商業活動ができないことに大きな不満を抱いていた。その不満が革命に繋がった。政権トップについたナポレオンは、革命防衛戦争に全力を注ぐとともに、内政面でも大ナタを振るう。これがナポレオンの治世の最大の成果でもある。
まずは、全国的に統一された税制、行政制度の整備を進める。また、革命で大打撃を受けた産業振興策を講じて、工業生産力の回復を目指した。1800年には、フランス銀行を設立し、経済政策を一元化し、通貨政策を安定させる。
革命の理想の成文化
ナポレオンの偉大なところは、ブルジョアが要求する諸権利を「フランス人の民法典」(のちにナポレオン法典)として成文化してまとめる作業を命じたことにある。
法律家4人をメンバーとする編纂委員会がまとめ上げた2281条からなる民法典は、「法の前の平等」から書き起こされて、私的所有権の不可侵、個人の自由、信仰の自由などを原則としており、近代市民法の模範とされている。
ナポレオン自身に法律的知識があったわけではない。しかし、フルジョアや学者が主張する諸権利が、いかに重要であるかの理解があった。そして、ここに書かれた国民の諸権利が、まさに扉を開こうとしている資本主義社会における国際競争で威力を発揮するであろうことを予測できたということだ。
ナポレオンはこのあと、権力欲におぼれ、世襲を約束された皇帝の地位につく。勢いを駆ってのロシア遠征にも失敗し、幽閉されて悲惨な晩年を送ることになるが、新時代の扉を開いた民法典とのちに制定された商法典は、今もあらゆる資本主義国家に、理想として引き継がれ、朽ちることはない。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『フランス革命 歴史における劇薬』遅塚忠躬著 岩波ジュニア文庫
『物語フランス革命』安達正勝著 中公新書
『世界の歴史 10 フランス革命とナポレオン』桑原武夫責任編集 中公文庫