ペリクレスの決断
紀元前(BC)5世紀の半ば、古代アテネの民主政を揺るがぬものとして、ギリシャで抜きん出た強大国家を現出させたのは、政治家であり将軍として活躍したペリクレスの統治時代である。貴族階層出身のペリクレスは、アテネ市民を一致団結させ国力を強化するには、平民(民衆)の政治的地位の向上が不可欠と決断し、民衆の価値観に歩み寄り諸改革に取り組んだ。ではペリクレス時代の民主政はどのようなものだったか。
まず、都市国家アテネの最高意思決定機関としての民会(国会)が設けられた。民会は必要に応じて巨大なアゴラ(広場)で開かれ、身分、所得に関わらず市民権を持つ成人男子は等しく参政権を持ち、誰でも自由に民会に参加できた。議決は一人一票が平等に与えられ、多数決で賛否が決した。決定した多数の政策意思に市民は従う。いわゆる多数決の原理だ。
かつては、一握りの貴族階層が独占していた市(国家)の重要な役職は、庶民から抽選で選ばれ、選ばれた役人は誰もが国家のために奉仕した。対外戦争で重責を担う軍の将軍たちは、民会で民衆による選挙で選ばれる。こればかりはずば抜けた識見と統率力が問われるためだ。
これまで政策立案と推進を一手に担っていた貴族階層の権限は次第に縮小され、長老としての裁判権だけが彼らに委ねられた。しかし、ここでも土地争いなどで不利な判決を受けた庶民は、民会に訴え出て最終裁決を仰ぐことができた。すべては民会の意思が優先される統治システムだ。
権利の平等が保障された庶民は、成人男子は等しく兵役に就く義務を負う。政治を、選挙で選んだ議員に委ね、行政も身分固定的な役人に託す現代の民主体制に比べて、アテネのそれは、全市民参加型の直接民主制が貫かれる。権利と義務は自由市民全員に平等に与えられ、かつ負担されていた。
富の偏在と再分配
改革に取り組んだペリクレスの発想の根幹にあったのは、貴族政社会にあった富の偏在の解消とその再分配だった。現代社会が抱える政治課題と同じだ。彼の処方箋を見てみよう。
農業社会のアテネの土地所有と人口比を学者たちの推計で見て見ると、こうなる。ペリクレス時代の総人口32,000人。うち4%にすぎない1,200人の貴族層が、農地面積の32%(平均農地所有18.2ha)を占有し、4.5ha以下の土地しか持たない農民が19,000人で、人口の63%を占めていた。さらに土地を持たない無産階層が10,000人(人口比33%)もいた。この富の偏在を放置すれば、国力強化はあり得ないとペリクレスは見抜いた。
階層人口比に応じた民意を集約するために採用されたのが、資産に関わらない平等参政権に基づく民会機能強化の発想だった。しかし、貧困層にとって仕事を休んでの民会への参加は経済的に負担となる。そこで、民会参加者に収入に見合う日当を支払う。さらに抽選で役職に就いたり軍務に動員されたりする市民にも応分の給与を支払うことにした。
役職の年限も1年と定めて負担を減らすとともに、順繰りに誰もが公務に就くことで共同体への帰属意識(愛国心)を持たせることに成功する。
壮大なパルテノン神殿は、雇用対策
富の再分配の発想は、意外な場面にも現れる。アテネの中心部、アクロポリスの丘に立つパルテノン神殿である。ペリクレス時代に建設された壮大な石造建築である。今でも見事だが、かつては、柱と壁に鮮やかな彩色が施され、神殿内には、黄金に輝く国家守護神アテネ女神の巨像が立っていた。ペルシャ戦争の勝利を記念してBC447年から15年の歳月をかけて建設された。
投入された巨額の国費を考えると「無駄遣いだ」と、当時ペリクレスは批判にさらされたというが、ただの散財ではなかった。15年間にわたる公共事業は、多くの雇用を生み出し続けた。建設に従事した労働者の多くは、人口の33%を占める土地を持たない無産階層だった。大事業は彼らに富を分配する機能を果たした。
古代アテネの発想は、我々の想像を超えて近代的なのだ。では、そうした巨額の予算はどこから生み出されたのかを次回に見ることにしよう。(この項、次回に続く)
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
(参考資料)
『古代ギリシャの民主政』橋場弦著 岩波新書
『スパルタとアテネ 古典古代のポリス社会』太田秀通著 岩波新書