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- 故事成語に学ぶ(33) 君命も受けざる所あり
「現場優先主義」の誤解
経営指南書としても重用される古代中国の兵法書『孫子』にある有名な句である。
〈将の命を君より受け、君命も受けざる所あり〉(将軍が君主の出動命令を受け進撃するにあたり、君主の命令といえども受けてはならないものもある)
「現場には命令の拒否権がある。現場第一主義の教訓」とする解説書もある。「本社の命令も絶対ではない。現場の判断でそれに背くこともありうる」と理解する向きもある。下手をすると下克上の勧めともなりかねない。果たしてそうか。それで企業(組織)は正しく運用できるだろうか。なにか誤解がありそうだ。
『孫子』の真意
この警句は『孫子』の「九変篇」にある。そこでは、進軍に際して現地指揮官が取るべき九つの応急対応が書かれている。
①足場の悪い場所では宿営せず直ちに通過する
②交通の要衝に着けば四方に使者を送り敵を孤立させる
③敵地に奥深く進軍した場合は長期戦を避け、敵をおびき出して一気に勝敗を決する
④山間の狭い一本道に迷い込んだら、敵の追撃防止策を講じた上で素早く撤退する
⑤逃げ場がない場所で強力な敵が前面にいれば、時を移さず正面突破し逃げ切る
ー以上が地理的条件。さらに四つの事態への対処を挙げる。
⑥渋滞が予想される道は、部隊が前後に分断されるので通らない
⑦正面攻撃で勝てそうな敵でも、他に謀略で突破できそうなら力攻はしない
⑧城を攻めるときは、容易に攻め落とせそうでも、その先の前進に利益がない
場合や、難攻不落に見えてもその先で勝利すれば降伏してきそうな場合は、
あえて戦いを挑まず放置する
⑨水、食糧が十分ではなく不毛な土地は占領には適さず、初めから手を出すな。
これら「九変」の心得は、軍事のみならず、経営訓、あるいは人生訓として読んでも、なかなかに含蓄が深いものがある。ここに九変篇の言いたいことがある。
著者の孫武(そんぶ)は、「将軍は、これらの対処法を身につけていなければならず、君主がこれらの道理をわきまえずに無謀な命令を下してきた場合には、将軍は断固これを拒絶できる」と説いているのだ。現場第一主義などではない。
司馬遷の描く「受けられない君命」
司馬遷は『史記』で孫武を取り上げ、その列伝を、「君命も受けざる所あり」のエピソードで書き起こしている。
呉王は、前回登場した宰相の伍子胥(ごししょ)から将軍への推挙を受けた孫武を試す。「おぬしが書いた兵法の著書は全て読んだが、実際に練兵をやって見せてみろ」。
孫武は、宮廷の女官たち百八十人を動員した。二軍に分けて、王のお気に入りの美女二人をそれぞれの隊長とした。手に手に槍を持たせ、「右向け右」から始めた。孫武が命じたが女たちは笑って応じない。孫武は「命令が徹底しないのは、指揮官の私の責任だ」と言って、再度、要領を徹底して、「右向け右」と命じたが、女たちはゲラゲラと笑うばかり。孫武、今度は、こう言った。
「軍令がすでに明瞭なのに、規定が守られないのは隊長の罪である」。孫武は隊長の美女二人にマサカリを振り上げる。呉王が割って入って嘆願する。「わかった。お前が優秀な指揮官であることは、十分にわかったから、美女二人を斬るのだけは勘弁してくれ」
そこで孫武。「私はすでに命を受けて将であります。将たるものは、陣中にあるかぎり、君命といえども、聞けないことがあります」。
孫武は、命令の威厳を示すために二人の美女の首をはね、将軍として採用された。
組織において、リーダーの命令は、余興ではすまない。命じたからには私情を挟めない厳粛で重いものである。軍を預かる将軍もまた、組織のため最善を尽くすのみ。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『新訂 孫子』金谷治訳注 岩波文庫
『孫子』浅野裕一著 講談社学術文庫
『世界文学大系5B 史記★★』小竹文夫、小竹武夫治訳 筑摩書房