天下分け目の関ヶ原の戦いで、毛利勢の参戦を止めた吉川広家(きっかわ・ひろいえ)は、徳川方から毛利本家の所領安堵の約束を取り付けた。
毛利当主の輝元は、自ら大坂城に籠もったままで戦場には出馬せず、配下の軍勢も動かなかったとはいえ、敗れた石田三成方の総大将として、通常なら所領没収となるところだ。
戦後、大坂城を出て帰国した輝元の胸中は「広家の機転で助かった」であったろう。
しかし、どんでん返しが起きる。戦後処理に乗り出した徳川家康は、吉川広家と交わした戦前の約束を反故にして、「毛利家取り潰し」を決めた。同時に広家には、周防、長門の二国を与えるとの沙汰があった。
慌てた広家は、家康あての起請文を送る。
「この度のこと、輝元の本意にあらず。輝元は心底、人間が練れておらず分別がないのはご存知の通り。輝元は今後、家康様に忠節を尽くすので、どうかどうか毛利の名字を残していただけますように。千が一、万が一、輝元が徳川に対して弓引くようなことがあれば、たとえ本家といえども、輝元の首を取って差し出す覚悟でございます」
もちろん、「輝元が処罰されて自分だけが取り立てられては面目が立たず」と書き添え、二国譲与の提案を辞退した。
首を懸けての嘆願に家康は応え、毛利家存続の決定を下した。
とはいえ、中国八か国・120万石の大大名だった毛利家は周防、長門二国・36万9千石に減封された。このことから、吉川家は幕末まで毛利家から「裏切り者」の汚名を着せられ続ける。
思えば、石田三成の挙兵に際して、毛利輝元には定見がなかった。
関ヶ原の戦いのきっかけとなった家康の会津征伐に一度は同行する決断を下しながら、毛利家の外交僧・安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい)の工作に乗って西軍の総大将に名乗りを挙げる。決戦が近づくや、三成からの再三の出馬要請に動かず、勝利の機会を自ら捨てる。関ヶ原後も、大阪城決戦を避け、故国に逃げ帰った。