東アジア激震
紀元前3世紀に前漢帝国が成立して以来、東アジアの歴史は、広大な領土と先進文化の担い手である古代の超大国・中国の歴代政権との距離の取り方によって左右されてきた。
618年、唐が隋を滅ぼして中国全土を掌握すると、膨張政策をとり、朝鮮半島から日本にまで大きな外交圧力をかけてくる。近代中国が米国と並び立つほどの経済力と軍事力を獲得してきた現状と似ている。
7世紀初頭の朝鮮半島は、北部から中国東北部にかけて軍事大国の高句麗(こうくり)、半島南西部には百済(くだら)、南東部に新羅(しらぎ)が、それぞれに中国の影響を受けて中央集権国家体制を確立し、国境紛争でしのぎを削る三国並立の時代だった。日本も数次の遣隋使、引き続いて遣唐使を通じて先進文化を学びながら、統一国家体制を整えつつあるさ中だった。
そこに激震が走る。659年、高句麗と百済に攻め込まれた新羅は唐に援軍を要請し、唐は13万の大軍を派兵して、新羅との共同作戦で、百済を滅ぼしてしまった。朝鮮半島の地域バランスが崩れてしまった。仏教伝来以来、日本は百済と親密な外交関係を維持してきた。さて、どうする日本。
朝鮮三国の対唐戦略
唐の最大の狙いは国境を接する高句麗の攻略だ。隋の時代からのテーマだったが、高句麗は隋を三度打ち破り徹底抗戦の姿勢を変えない。唐は遠交近攻戦略をとって、半島南部で百済と新羅を支援することで高句麗を正面と背後から挟み撃ちにする戦略を取る。。
百済はというと、唐の影響力が半島に及ぶことを嫌い、義慈王が高句麗と共闘する道を選ぶ。日本の支援もあてにした。
したたかだったのは新羅だ。外交に通じた武烈王(金春秋)は唐の遠交近攻戦略を逆手にとって、新羅による朝鮮半島統一の好機だと見た。彼によれば、倭国(日本)政権は百済と親密な関係にあるとはいえ、国家統一に向けて奥羽地方の蝦夷(えみし)征討に軍事力を割かれており半島出兵の余力はないと、見抜いている。実際に日本は、百済の窮地を知りながら、海を越えての派兵を見送った。遣唐使派遣を通じて築いてきた唐との関係の悪化を招きたくないとの思惑があった。
朝廷、大軍出動を決断
それはそれで一つの決断なのだが、ここから女帝、斉明天皇の判断が揺れる。百済の故地から唐軍が撤兵した後、各地で百済再興に向けて遺臣たちが挙兵する。彼らから援軍要請の使者が送られてくる。「日本に難を逃れていた百済王子の豊璋(ほうしょう)を連れて軍を派遣してほしい」。
朝議は揺れたに違いない。百済再興の道はあるのか。大国の唐を敵にまわせば、次は唐の大軍が日本に押し寄せてくるのではないか。だとしても百済との歴史的な友好関係は裏切れない。
今話題の台湾有事と同じく、大国中国の思惑と脅威をめぐる「国家存立危機事態」の対処について侃侃諤諤(かんかんがくがく)の議論が続いたのは想像に難くない。
660年の年末、天皇斉明は、難波宮で百済救援軍の派遣を表明する。自ら海路を九州の筑紫に出向して派遣軍の準備を始めたが、翌年7月に急逝する。派兵事業は息子で皇太子の中大兄(なかのおおえ=後の天智天皇)が引き継いだが、派兵決定自体が彼によるものだともされる。
662年の正月、九州、中国、四国、陸奥から狩り集められた兵士5千余人を載せた第一陣の船団が、百済王子・豊璋を護衛して那の津(なのつ=博多)を出港し半島に向かった。
情勢分析も不十分なまま、百済への義理に引きずられた日本は、勝利の展望のないまま、無益な戦争に突入するのである。(この項、次回に続く)
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考資料
『日本の歴史2 古代国家の成立』直木孝次郎著 中公文庫
『白村江 古代東アジア大戦の謎』遠山美都男著 講談社現代新書




















