「兼聴」の心得
貞観2年(628年)というから、唐の太宗の治世が始まってまもなくのころ。あるとき太宗は、相談役(諫議太夫=かんぎたいふ)の魏徴(ぎ・ちょう)に問いかけた。
「明君と暗君の違いはどこにあるのか」と。
魏徴は答えて言う。
「明君の明君たる所以(ゆえん)は、兼聴する(広く臣下の意見に耳を傾ける)ことにあります。暗君の暗君たる所以は、偏信する(お気に入りの臣下の意見しか聞き入れない)ことにあります」
明解かつ単純な返答だ。人というものは、権力の階段を駆け上るにあたっては、心広く他人のアドバイスを聞く。しかし一旦トップの座に落ち着いてしまうと驕り高ぶり、他人、特に部下の意見は耳に逆らうようになるものだ。
〈オレの判断は常に正しい。正しければこそ、この地位を手に入れたのだ。ごちゃごちゃ言ってないで、お前たちはオレの言う通りにやればいいんだ〉。暴君的リーダーが陥る罠だ。
会議を開いても、リーダーと対立する意見を言っては逆鱗を買うだけなので、反対意見は出ない。挙句の果てには、トップの意思を先読みして「おっしゃる通りです」と、お追従の意見表明が相次ぐ。いち早く、さらにもっとも強力にトップの意見を支持した部下が出世するのを見て組織は忖度(そんたく)競争に陥る。
これを見て“暗君”は、こう判断する。〈やはり、皆の意見もオレが考えた通りじゃないか。わが組織は、鉄の結束が維持されているな〉。こんな組織、会社は、鉄の結束どころか、早々に瓦解するのは目に見えている。
魏徴は、発足まもない大唐帝国のトップに「耳を開け」と戒めたのだ。
人材を見抜く能力
魏徴は続いて、古今の明君と暗君の例を太宗に示している。明君として伝説上の聖天子とされる堯(ぎょう)と舜(しゅん)を挙げる。「彼らは、(王城の)四方の門を開け放って賢者が来るのを待ち、広く人々の意見を聞いて、それを政治に活かしました。その治世は、恩沢があまねく万民に及び、巧言を弄(ろう)する者たちに惑わされることもなかったのです」
対する暗君の例も示している。始皇帝が開いた秦国の二代皇帝の胡亥(こがい)は、王宮に引きこもって臣下を退け、身近にはべる宦官の趙高(ちょう・こう)一人を信頼して、人心が離反するまで、政治の実態に気づかなかった。また、唐に先立つ隋王朝の第二代・煬帝(ようだい)も側近一人の言うことだけを信じて、盗賊が町村を荒らしまわる実態をまるで知らなかった。いずれも短期間で権力の座から転げ落ちて国を滅ぼした。
そして、魏徴は最後に言う。「これらの例を見れば、君主たるものが臣下の進言に広く耳を傾ければ、一部の側近に耳目を塞がれることなく、よく下々の動きを知ることができるのです」
組織のトップは忙しい。すべてに目配り、耳配りできる余裕はない。「臣下の進言に広く耳を傾ける」―それは当然なのだが、最側近に適切なアドバイスができる人材を置くことができるかどうかがカギだ。下からの意見は最側近で絞り込まれて、トップの耳に入る。トップの耳に痛い情勢報告をできる側近を持てるかどうか。つまり、トップに求められるのは、その人物がアドバイザーとしてふさわしいかどうかを見極める「人材を見抜く能力」に尽きる。
敵の謀臣さえ採用した太宗
太宗は、権力闘争の過程で、数々の学者や功臣を手元に引き込んだ人遣いの名手であるが、「明君・暗君」論を太宗と交わした魏徴という男は、複雑な経緯で太宗に仕えた。
魏徴は当初、大唐帝国二代の地位を約束されていた皇太子(高祖の長男)の李建成(り・けんせい)に仕官していた。太子の弟である太宗が権力簒奪に野心ありと見るや、太子を支えて謀臣ぶりを発揮する。兄弟の仲を離間させ、太宗の暗殺まで企てるが、太宗がクーデターに成功し、太子は殺された。魏徴は太宗の前に引き出される。死を覚悟した魏徴に太宗は詰問する。
「お前は、なぜ謀略を尽くしてわれわれ兄弟の間を割こうとしたのか」。鬼の形相である。魏徴は悪びれず答えた。「皇太子殿が私の言うことを聞いていたならば、今日のような禍いはなかったものを」
この一言で、太宗は魏徴を召し抱えることを決めた。命乞いもせずに披瀝した皇太子への忠誠心が本物であると見抜いた。魏徴は生涯、太宗に尽くし、時には命をかけて皇帝を戒める諫言を繰り返した。
太宗なくして魏徴の諫言はなく、魏徴なくして明君による「貞観の治」はなかった。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『貞観政要』呉兢著 守屋洋訳 ちくま学芸文庫
『貞観政要 全訳注』呉兢著 石見清裕訳注 講談社学術文庫
『中国宰相・功臣18選』狩野直禎著 PHP文庫