「モンゴル相撲」など、他国にも相撲があれど、日本の相撲は「国技」と呼ばれている。尤も、「国技」の解釈は正確には二通りあり、「法律で定められているもの」と「広く国民に愛されているスポーツ」とある。隣国・韓国の「テコンドー」は前者だが、「相撲」は「野球」や「サッカー」のように、言うまでもなく後者に属する。
昨年はラグビーのワールドカップで「ワン・チーム」という言葉が流行ったが、一見時代遅れにも見える相撲の人気がすたれないのは、スポーツの中における「精神性の高さ」に加え、日本人の特質を顕著に持っている点も大きな要素の一つだろう。
廻し一つの裸体で何も武器を持たず、己の肉体と技術のみで正々堂々と勝負に臨み、一分ほどの闘いに死力を尽くす。現在、本場所は十五日だが、江戸期には一場所十日間、年に二場所しかない期間が長かった。そのために、「一年を二十日で暮らすいい男」との川柳も生まれたが、現在同様に地方巡業や、寺社への寄付集めの「勧進相撲」などのチャリティ・イベントなども多く、川柳に詠われたような暮らしができたのは、ごく一部の人気力士しかいなかったのは、昔も今も同じかもしれない。
また、当時は「歌舞伎役者」と並ぶほどのスターで、庶民が愛好した「浮世絵」のモデルには、必ず当時の人気力士が描かれた。この感覚は昭和まで続くことになり、形は変わったが、子供が遊ぶ「メンコ」の図柄は人気の映画スター、野球選手、力士とされていた。
我々が相撲に親しみを感じるのは、「潔さ」を併せ持っている要素も大きいのかもしれない。土俵際まで追い詰められてからの粘りや、そこで見せる技の駆け引きは、「経営論」に通じるものもあるだろう。しかし、会社の場合は、そう簡単に潔く諦めるわけには行かない。一方で、追い詰められ、しかも僅かな時間に自分の持てる限りの力と技量を瞬間的な判断で発揮する点は、似ていないとは言えなくもない。
誰もが「全勝」で千秋楽を迎えたいのは当然で、そのために日ごろの厳しい稽古を重ねているが、それは不可能な話だ。しかし、日本には「新規蒔き直し」という便利な言葉がある。醜い勝ち方よりも潔い負け方をした上で、次に賭ける考えが、経営に通用するかどうかはともかくも、汚い真似はしない、という点も参考にはなる。
相撲全体を少し離れて眺めてみると、実に多くの神様に囲まれていることがわかる。スポーツでありながら「神事」とも言われる所以だ。迫力のある「四股」は、大地を踏み固め、その土地に宿る霊を鎮める行為であり、土俵の上の屋根には四つの方角を守る神様の象徴の「房」が下がっている。これは、中国大陸から挑戦半島を経て日本に入った「陰陽道」や「道教」に関わりの深いもので、「四神(しじん)」と言う。北を「玄武」(黒い亀)南を「朱雀」(赤い雉)、東を「青龍」、西を「白虎」が守っている。この四神の考え方は土地の地相にも応用され、「玄武」は山、「青龍」は川などを意味し、この「四神」に守られた土地は繁栄を見せると言われてきた。ちなみに、京都も東京も、「四神」に守られた土地である。
また、取り組みが始まる前には必ず土俵に塩を撒き、「清め」の行為を行い、口を漱ぐ。神社に詣でる時の作法と同様だ。
そうした「清浄」なる物に囲まれた存在である「力士」には、邪気を祓う力がある。赤ん坊が力士に抱いてもらうと健康に育つという、科学的根拠がない話がいまだに微笑みを持って報道されるのはそのためだ。
現代の我々の周りは、意識するとしないに関わらず、「邪気」に満ちているような気がしてならない。宗教的な問題ではなく、言ってしまえば気分の問題で、科学的に数値化されたものは何もない。しかし、日常生活をマイナスに転じる要素はないに越したことはない。相撲が持つ「潔さ」や「清浄感」は、トップ・リーダーたちにも好まれているようで、その理由は私が述べた以外にもいくつもあるのだろう。
新しい一日を気持ちよくスタートし、充実したものにするために、神棚があれば拝礼するもよし、なければ自分の心の中で「浄化」できるような気持ちを持って仕事に就けば、やがては何かが変わるのではないか。昔の諺に「朝は機嫌よくしろ」と言うのも、あながち嘘ではなさそうだ。信仰や信心以前の問題で、自分の「心」とどう向き合い、清々しく一日を始められる行為は、汚れを清め、邪気を祓う相撲の勝負前の仕草や勝負に対する考え方に似ているような気がする。組織のトップに立つ人が朝、どんな顔付きで部下に接するかは、その日の士気に大きく影響を与える。まさに、相撲道における「平常心」が必要な瞬間でもある。
改めて、連綿と続く日本の伝統や文化から学び取れるものの多さに気付かされるが、後はこちらがそれを取り入れようと思うかどうかの心持ち次第だ。
パソコンのスイッチを入れる前に大きく深呼吸を始めることから、一日が変わるのかもしれない。