あるとき、豊臣秀吉が聚楽第に諸将を集めて演能の会を開いた。
戦国の世は落ち着きを取り戻し、演能の才も書道、和歌も武士のたしなみでもあった。秀吉はそれぞれの才を見ようとした。
織田信雄(のぶかつ・信長の弟)は、舞に自信があった。龍田舞いを一部のすきもなく見事に演じた。
徳川家康は、船弁慶で義経を演じることになったが、若武者には似つかわしくない太鼓腹でよたよたと舞台を動き回り失笑を買った。
家康をなじる声を聞いて、秀吉は「信雄は不必要なことに達人で、家康は不必要なことに下手なだけだ」と見抜いた。
あえて馬鹿を装う家康の“作り馬鹿”の才に、そら恐ろしさを感じていたかもしれない。
また、秀吉が小田原に北条氏を攻めたときの逸話がある。家康は先手の将としてある小川にさしかかった。細い木橋がかかっている。
家康は馬の名人として知られていたから、豊臣勢の武将たちは、「いい場面に出くわした。家康殿の馬術の才を見ようじゃないか」と固唾を飲んで見守っていると、家康は木橋の際まで来ると馬を下 り、従者に背負われてぶざまな格好で橋を渡った。
見守っていた丹羽長重らは、「馬の名人ながら達者ぶらず、いくさを前に慎んでいる。大将たるものかくありたいものだ」と感心したという。
「あの古狸め」と、家康を嫌う秀吉の近臣の一人が秀吉に進言した。
「腹が出ていて、自分一人では下帯も結べず、用便もできぬとか。家康はぼんやりの鈍物でありましょう」
秀吉は言った。「わしが知っている利口者というのは、武に優れ、広大な領国をうまく経営し、財力を持つものをいう。この三つが整えば、ほかのことは馬鹿でもかまわぬ、家康の作り馬鹿は、お前たちが真似をしても一生できぬことよ」
人は人前で才を誇りたくなるものである。接待ゴルフのラウンドで見事なクラブさばきを誇る手合いは多い。しかし、プロでもあるまいにその能力を評価するものはいない。あえて才気を見せず、作り馬鹿を装う才こそ、人を怖れさせる。
天下統一の創業者である秀吉は、やがて、作り馬鹿の家康が、豊臣の世の後、天下人となることに気づいていたに違いない。
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このあと、後継者問題に稿を進める。