「猫の首に鈴をつける」ことは難しい。であればこそ諺にもなる。時代の動きについて行くためには、どんな組織も世代交代が不可欠だ。
企業経営であれば、次世代にうまくバトンタッチできるかどうかが、企業が永続できるかどうかに関わってくる。
町工場から身を起こした本田技研工業(ホンダ)は、根っからのエンジニアである本田宗一郎と、販売・金策の天才である藤沢武夫の社長、副社長コンビで順調に業績を伸ばしていた。
職人としての腕と発想に絶大の自信を持つ本田は、技術研究所を舞台に新技術開発に没頭する。二輪車の成功を基盤に四輪への進出を夢見ていた。
藤沢はというと、事業が順調であればこそ、次世代の経営陣の育成に腐心していた。
藤沢は早くから、二人の天才による牽引では事業経営はやがて行き詰まると考えた。
まだ草創期から、「創業者の一番大事な仕事は、次の世代に経営の基本をきちんと残すことだ」と周囲に宣言していた。そして行動に移す。
これはと見込んだ部長、次長クラスを取締役会に出席させて討議の輪に加え、マネジメント能力を磨かせた。
そして30代の若い取締役を次々と誕生させ、若い四人の専務による集団指導体制の布石を打っていく。
「カネのことはお前に任せる。その代わり技術については口を出すな」と本田が宣言した二人三脚による創業体制は絶妙なバランスだったが、やがて、暗礁に乗り上げることになる。
本田は、二輪車で磨き上げた空冷エンジン技術に絶大な自信を持ち、その技術を持って四輪の世界に挑むことを決断する。
確かに360ccクラスの軽四輪では「ホンダの空冷」は一世を風靡したが、1000ccを越える本格的乗用車では、他社が進めるラジエター式の水冷エンジンに分があった。
現場の技術陣には、「技術的に限界のある空冷にこだわり続ければ会社はもたない」と不満がわだかまったが、「これは俺が作った会社だ。いやなら辞めちまえ」と吠える社長に、表立って非を鳴らすには勇気がいった。技術者たちのサボタージュが始まった。
「よし、俺が言おう」。藤沢が動き出す。 (この項、次週に続く)