慶長二十年(1615)の大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼした家康はようやく乱世に終止符を打った。
関ヶ原での勝利から十五年、江戸開府から12年かかった。そして翌年、病床につく。後継者の秀忠を呼んだ家康は覚悟を問う。
「わしが死んだ後、天下はどうなると思うか」
答えて秀忠が言う。「再び乱世となりましょう」。その即答を聞いて家康は、「思い残すことはない」と満足げだったという。
信長の統一事業、そして豊臣の世、家康の天下取りと激動の半世紀を振り返れば、太平の世はまだ遠いと家康は考えていた。
太平の世にこそ似つかわしいと秀忠を後継者に据えたが、ひとつ間違えば世は再び乱れる。その際の対応を覚悟している息子は後事を託すに足りると父は安心した。
父に「大権現」の神名を奉って見送った秀忠は、人が変わったように政権の強化に乗り出す。
家康は、譜代と豊臣家臣のバランスで権力を保ったが、秀忠は違った。力による大名統制に取りかかる。
まずは身内から。異母弟の松平忠輝(信濃川中島)の乱脈統治を聞くや、迷う事なく伊勢に配流した。秀吉の忠臣から徳川方についた大大名の福島正則(芸備)に対しても、将軍家を軽視した振る舞いに、 禄を没収した。
加藤清正の跡を継ぐ九州の加藤家をも、お家騒動を収められないとして取り潰した。
秀忠の時代に取り潰した大名家は四十一家、石高にして四百万石を越えた。
そして将軍名で領地安堵の朱印状を発行して、思い通りの大名配置を実現してゆく。
その果断は、「凡庸な二代目」と秀忠を軽んじていた大名たちを震え上がらせるに十分だった。
さらに、朝廷の権限も大幅に縮減させ、幕府による一元支配を完成させる。まさに太平の体制を築いていくのである。
創業者である父の存命中は、ひたすら父を立ててその統治方法を踏襲し、自分の代になって独自性を発揮した。ひたすら耐えながら父の統治方法を学んだればこそである。
父に倣って家光に将軍職を譲り大御所として君臨した秀忠にも死期が訪れる。
「大御所様は家康公のように神号をお受けにならないのですか」と、見舞いに訪れた側近の天海僧正から問われ、秀忠はこう答えている。
「私はただ、先代の偉業を継ぎ守ろうとしたまでで何の功績もない。人というものは栄達ばかりを考えて、己の分際を知らないのが一番怖いことだ」
二代目という辛い立場を見事に乗り越えた男の最期の言葉である。